「やあまないですねー」
山と積まれた乾草を均す手を止めて、梅花は深々と溜め息を吐いた。
見上げる格子窓の隙間からは、どんよりと重い空と冷たい水のにおい。
玉蘭とこの地──秤弦の家に落ち着いてからすでに十数日が経過している。その間に、必要な物の在り処も奏葵の仕事の手伝いも大分覚え、ここでの生活にも馴 染んできたところだ。なるほど秤弦は名匠の誉れ高いだけあり、広い敷地と蔵、民家にしては随分立派な厩舎に至る通路にまで屋根のかかる邸宅で、若い梅花の 好奇心を満たすには十分な場所だったのだが、幾日前からか降り始めた雨は一向に小降りとなる気配すらなく、屋内に閉じ込められた格好の彼女は、早々に息の 詰まる思いを感じ始めていた。
「乾格の雨は降り始めると止まらないから」
すぐ傍で愛馬の世話をする玉蘭は、苦笑混じりの相槌を打つ。
「そーんなこといったって、これじゃあ体が鈍っちゃいますよーう」
「それは否定できないわね」
なおも腐る梅花に、玉蘭も馬をさする手を止めた。
二人とも、これが普通の人々の生活なのだとは重々承知している。いるのだが、幾年も将兵として過ごしてきた習慣が全身に染みついて、移動するでもなく満足な鍛錬のできない日々が、どうにも落ち着かない。
いかに広い刀匠の家とはいえ、屋内で武術鍛錬を行えるような場所まではなかった。
そうして思案すること少し━━
「理術連携でも始めてみる?」
「はあ? どうしたんですかっ突然!」
玉蘭の出した提案を、とんでもないとばかりにぶるぶる震えて梅花は頓狂な声を挙げる。
体を動かすどころか、理術━━理法を学ぶなど、彼女にすれば全身が痒くなることうけあいだ。
叫ぶ梅花に驚かされて、馬達までが激しく嘶き、暴れだす。
「わっきゃっすみませんっ」
梅花は慌てて近くの鬣を掴み、彼らを宥めにかかった。
戦場の雄叫びにも馴らされた玉蘭の愛馬は兎も角、長閑な環境で育った搬馬達を落ち着かせるのは並み大抵のものではなかった。
「きゃうー、おとっなしくっしろってば!」
全身で馬にしがみつき、押し退けられ、押さえつけ。息切れしながら首筋を撫でさすって声をかける。もう一頭が髪に噛みつくのを押しかえしては、跳ね上げられた後足を回避して鬣を捕まえる。
足は遅いが力の強い彼らを相手にしては、馬の扱いには大分慣れた梅花でも、本気で立ち回らなくてはならなかった。
彼女の奮闘は、大騒ぎに気づいた奏葵が何事かと首を覗かせるまで続けられた。
「おやおや、これはまたどうしたもんかねえ」
多分にあきれの混じった声をかけられてあたりを見回せば、せっかく整えかけていた敷き藁も、厩舎中に散乱してしまっている。
「あう、ごめんなさい」
バツが悪く頬を赤らめて、梅花は奏葵に言う。
奏葵は腰に手を当てた姿勢で苦笑を浮かべ、もう一人の当事者に顔を向けた。
「で、あんたはそこで高みの見物かい? そういうところは相変わらず更そっくりだね」
「これくらい、梅花にとっては軽い運動ですよ」
「玉蘭様ぁ……」
いつの間にやら、屋根裏に続く梯子に腰掛けていた彼女がしれっと答えるのを、梅花は情けない表情で見上げる。
玉蘭はくすくす笑って、二人の間に飛び降りてきた。
「この子達には気の毒だったけど、運動不足が解消できて良かったんじゃない?」
「何かそれって違いますぅ!」
「運動不足って……あぁそうかい。あんた達はそういう人だったね」
「さすがにこんな雨続きは久しぶりだから」
いたずらっ子を見るような奏葵の表情が、ふと翳ったように見えた。けれど、梅花が何か言おうとする前に玉蘭が肩を竦めて応じたので、その訳を訊ねる機会を失ってしまった。
「全くうちの子供ときたら落ち着きがないのばっかりだねぇ」
溜息を一つ吐いた後の奏葵はもう、元通りの顔つきをしていた。
1月02日から5月18日までの間Web拍手のお礼として公開していた一幕。多分三姉妹の中で一番子供っぽいのが梅花。