「まいどどーもっ」
弾むような若い声が聞こえてきたのは、蕃佑が村を訪れて早々のことだった。
もともとこの村出身である彼は、近くの町で私塾を営む伯父の手伝いをしている。今日この場所に訪ねたのも、その使いを頼まれたためだ。
声に違わぬ若い娘は、近づいてくる蕃佑に気付くと、何も言わず道の端へと避ける。
大柄な居丈夫である己を重々承知している蕃佑は、無駄な威圧間を与えぬよう穏やかな表情を保って、「かたじけない」と、すれ違いざまに軽く会釈を返す。
「いーえー」
「?!」
その手前まではよくある反応と受け止めていた彼は、よもや返事があるとは思いもよらず、つい娘を振り返った。
娘は何事もないように、蕃佑が過ぎ去った道を遡る方向に歩いていく。
わざわざ、呼び止めるほどの大事はない。
蕃佑はそのまま目的の場所、楊商店へ足を踏み入れた。
「いらっしゃい! おや佑じゃないの。今日は先生の用事かい?」
相変わらず闊達な小母さんに迎えられ、まずは、と用件を切り出す。
もとより単純な役目はすぐに片付き、すると蕃佑はうずうずと何か話し出したそうな小母さんの様子にぎくりとする。ちょっとした用事なのにわざわざ蕃佑を使いとしたのは、このお喋りな小母さんの相手を彼に任せるために違いない、と内心で溜息を吐いた。
その予感に狂いはなく、始まったのは最近の村の噂話。近況を知れるのは良いのだが、この勢いにだけはどうしても圧されてしまう。
何より、このお喋りな小母さんが言っているどこまでが信頼のできる内容なのか。
「それでね」
相当にげんなりする蕃佑に構いもせずに、小母さんはなおもあれこれ捲くし立てる。
蕃佑はこの攻め苦から逃れる術を探して、やおら視線を彷徨わせる。
そしておや、と首を傾げた。
「ちょいと聞いてるのかい? 佑。軌でさえ良いヒトを見つけてきたんだ、おまえもいい加減身を固めたらどうなんだい」
「某は未だ修業中の身。あの楓軌に良いめぐり合わせの女人ができたとは喜ばしいが……真なのだろうか? うーむ、俄かには信じられぬ」
咎めるように肩を叩かれ、蕃佑は矛先が己に向かぬような言葉を返した。
うんざりはしていても、右から左へまるきり話を素通しさせるのは、彼の性ではない。相槌を打つ気になれば的外れでないそれを打つことはできるのだ。
「軌には過ぎた娘さんだけどね、大した肝っ魂でねぇ! あたしは一目で気に入ったよ」
蕃佑以上に厳しい楓軌と噂になるだけの距離に在れるのだ、肝の太さは確かなのだろう。
しかし、物怖じしない、歳若い娘?
蕃佑はふと先ほどすれ違った娘のことを思い出した。
彼女もまた威圧感のある蕃佑の傍を平然と過ぎ行き、言葉さえ返した。
「何しろこないだうちに賊が入ったんだけどね、その子の機転で軌が待ち伏せして、見事ふんじばってやったんだ。ありゃあ絶対将来はあの子の尻に敷かれるねぇ」
危険な目に遭った筈なのにからから笑ってのける小母さんも、結構な肝っ魂だ。蕃佑は、あの力任せなところのある楓軌が、待ち伏せなどという小技を利かせたということに目を瞠った。
蕃佑の反応に気を良くした小母さんは、更にその娘について言を進める。
「ま あそれだけなら、良いつり合いってもんだけどね、これがなかなかの器量良しでさ、ここらじゃ見かけないようなすべっすべの肌してるもんだから、村の若い方 のが聞いたのさ、手入れの秘訣は何だってね。高慢ちきなどっかのお嬢なら鼻でせせら笑って育ちが違うっていうもんさ、それをあの子はねぇ」
「うむ」
ついつい蕃佑は本気の相槌を打った。
いくら噂好きとはいえ、小母さんがここまで手放しで褒めるのも珍しい。何時からこの村に滞在している娘かは知らないが、よほどの人物なのだろう。
蕃佑もその娘──もしかしたら先ほど行き合ったかも知れない相手に興味を抱いた。
「必要な薬草やら調合法やらをあっさり教えてくれたのさ。ご丁寧に、ここいらで賄える材料に置き換えてね。それがまた効果覿面! あたしらまで何歳か若返った気分だよ」
満足げにぴたぴた頬を叩く小母さんの、肌の張りが如何様なものなのか、生憎と蕃佑には見分けがつかない。
ただ本人がそこまで言うのだからそうなのだろうな、と考えるのがせいぜいだ。
「それにしても、その娘御はこの村で何を?」
「野暮なことを聞くんじゃないよ! って言いたいところだけどねぇ」
小母さんはそこで初めて表情を沈ませた。
「旅の途中で一休みって感じかね。もともとそう長居するつもりじゃあなかったみたいだけど、賊騒ぎなんてもんがあったしで、宿屋でも杜氏の家でも何やかや理由つけて引き止めてるのさ。今の内にあの二人の仲が進展してくれれば良いんだけどねぇ」
結局はそこに戻るのかと蕃佑は呆れた。
危険極まりない賊が横行する中に飛び込まぬよう、若い娘を引き止めたのは良いことではあるが、下心あってのことでは仕方が無い。
「あまり無理に引き止めるのも如何とは思うが……」
「何言ってんだい、軌が不甲斐無いからあたしらが気ぃ効かせてやってんじゃないか。それに口実ってはいうけどね、ちゃーんと取引はしてるんだ、何一つ損はさせてないさ。残ってくれるにしろ出て行っちまうにしろ、先立つもんは大いに越したこたないだろ?」
「ならば某が口を挟むことでもないな。どれ、そろそろ失礼して楓軌の様子でも見舞ってこよう」
「ちゃーんと発破かけておくれよ!」
「心掛けよう」
一言弱く窘めただけで何倍もの言葉に押し返された蕃佑は、これ以上遣り込められてはかなわないと、ここぞとばかりに腰を上げた。
小母さんの言っていることがまんざら嘘ではない証拠に、見覚えの無い美容液の瓶が店先に並べられていた。先刻店を出て行ったあの娘は、これを卸して行った のだろう。売値は村の者でもちょっと奮発すれば手が届く範囲。町の雑貨屋で見かけるものと比べれば、一桁は下がる低価格だ。
大した商売上手なのは、その娘なのか小母さんの方なのか。
「軌なら今時分は村はずれにいる筈さ」
「心得た。では御免」
訪ねる相手の所在を知らされて、蕃佑は楊小母さんの前を辞した。
表に出てからその娘の名前を聞いていないと気づいたが、引き返して訊ね返す気にはなれない。
「ふむ、まあ楓軌の奴に紹介させれば事足りるか」
そうして蕃佑は、村はずれに向かって歩き始めた。
そこに待つ相手が、この先の彼の人生にどれほど影響を与えることになるのか、蕃佑はまだ知らない。
そしてそれが、「紅朱宝」を名乗る少女との、最初の出会いになるのだった。
朱宝と蕃佑のすれ違い編。
5月18日から9月29日までの間のWeb拍手でした。