燃え盛る炎の合間を縫って、青年は飛ぶように駆けていた。
真夏の太陽は、折しも頂点を上り詰め、周囲を過酷な暑さへと仕立て上げている。
その年は──酷暑、だった。
砂漠に程近い、猛暑さえも友とするようなこの国においてさえも、その凄まじさのあまりに、領民達は次々と倒れ、作物はことごとく地に伏した。
そして、この、宮殿を襲った大火──庭の片隅から起こった火は、乾燥しきった周囲の家屋を巻き込み、辺り一面のもの総てを焦化した。
青年には、この王国の寿命が最早完全に尽きようとしているということが、手に取るようにわかった。
目の端をとらえるのは、焼けただれた民衆の、弱り果てた姿。地面にその身を横たえようとすれば、灼熱の砂に生命を預けることとなる。
さながら、この世に炎熱の地獄が具現したかのようであった。
青年は唇を噛み締め、怒りを堪えるように足を早めた。
比較的被害の少ない町の外郭ではなく、未だ火の勢いの衰えない、宮殿の中核に向かって。
不思議なことに、青年の身体には火傷一つできていない。焼け焦げ、赤くなった鉄の扉を、これまで幾度もこじ開けてきたというのに。
熱と炎は、いかなる方法を持ってしてもこの青年を傷つけることはできないのだ、少なくとも、今は。
青年の額に輝く銀の飾り輪、それが彼の身を保護している力の源。
青年は、今や生き物の存在しない炎の回廊を、ただひたすらに走り続けた。
ばたんっ
最後の扉を蹴り倒す。
かつて扉であったものは、床に落ちると奇妙な形にひしゃげ、崩れる──しかし青年は、決してそれを見ていなかった。
走り詰めであった割には乱れぬ呼吸で、彼はようやく立ち止まる。
大広間だった。
国王の残骸が、部屋の中央に錫を落としている。
青年はゆっくりとその近くへ歩み寄った。
厳格で、正嫡、妾腹の別に関わらず子供達を愛してくれた父親の面影など、どこにもない。
間違いなく彼の息子の一人である青年が、それでもその骸へ黙祷を捧げようとうつむいたとき、風が─―何故か突然、風が彼の周囲を巡った。
肌に触れるは、炎によってもたらされるものとは、全く異なった類の風。
ガツッ
寸前に飛び上がった青年の足許を、焼けた柱の鋭片がかすめ、床に刺さった。
明らかに感じられる殺意。
青年の手には、何時取ったのか国王の錫が握られている。そして、それ以外彼には使える武器、あるいは防具はないようだった。が……
「来いっ!」
青年が誰にともなく叫んだ瞬間、一つの異変がそこには起こった。
彼を中心として、その部屋いっぱいに銀の光が広がったのだ。
それに伴った強風は、一瞬にして部屋を熱から開放した。
ゴォォゥ……
光と熱はじき収まり、青年の瞳の前に、更なる惨状をさらけ出す。
薄黒く煤けた石の壁。瓦礫となり、元の形状を失ったそれの下敷きとなった、男とも女ともつかぬ複数の屍。逃げる途中で転びでもしたのだろうか。折り重なるように西の入り口で倒れ伏した、二人の、おそらくは従者達。
足元には、かろうじて宝冠とわかるものをつけた、小柄な人の形が……
「う……ミ、シー…ナ……」
青年は、目を伏せて視線を逸らせながら、その宝冠の持ち主であった少女の名前を呟いた。放浪癖のあった自分に、一番なついていた妹姫。未だ、十五を数えぬ齢であった。
「済まない……済まない…ミシーナ……お前……お前をこんな……こんな姿に……!」
あと一日──いや、あと半日早く戻っていたならば。のんびりと構えていた自分が、彼は今更ながら許せなかった。
いくら酷暑で乾燥していたからといって、こんな大火が石造りの館で起こるはずがない。
彼の出国を聞きつけた何者か──恐らく、“あの連中”が、この国に始末をつけようと、妖道の火を放ったのだろう。彼が間に合ってさえいたら、このような惨事には到らなかったはずだ。
──いや、そもそも。妖撃の軍将たるこの自分が、遠国に出かけたりなどせずにいたならば……!
悔しさのあまりに手が震える。
──自分の家族さえ守れなくて、なにが真銀戦士か。一体今までお前は何をしてきた? 戦ってきたのは何のためだ。こうして何かを失うためか! そうじゃないだろう? かの総将のいないこの時代、軽々しい行動などするべきではなかったのだ。少なくとも、誰か一人信頼できる術者を、残していくべきだった。傲っていた。自分は、力を過信しすぎていた。しかし、それに気づくのにはあまりにも大きな………
“ディミダ、ディミダ、様っ! いかがなされました?”
不意に、彼の思考に割って入るものがある。
そこで初めて、青年は自分の為すべきことを思い出した。
「やられたっ俺は“奴”を捕まえる。二陣が来る前に追いついてくれ!」
この国へ向かう街道にいるはずの従術師に、そう叫ぶ。
先程の、思考の持ち主──彼女の側には、治の術に長けた者もいた。無力感に打ちのめされてばかりいては、救える生命も助けられずに失ってしまう。民衆思いであった義妹が、そのようなことを望むはずがない。
彼女のためにも、勝たなければ。戦わ、なければ……
青年は、何時しか白銀の輝きを持つ別のものに姿を変えた王錫をきつく握りしめ、開け放たれた扉から外へと飛び出した。
───後悔させなければならない。この自分から大切なものを奪ってしまった愚かさを。
失ってしまった自分以上に。その、身をもって。
石壁の隙間、黒ずんだ床の間からも、妖火の気配は漂ってくる。それらの示す方向はただ一つ。
青年は中庭に走り込んで、気を集中させるように腕を構えた。
銀の光が密度を濃くし、青年の全身をも包み込む。
瞳に冷たい炎が宿った。
「はぁ───っ!」
タッタッタッタッタッ
走りざま、無造作に腕を引き上げる。
白銀の刃が鮮やかな放線を描いて、彼の前を通過した。かと思ううちに、金属同士を強い力でこすりつけたときに生まれてくるような火花が、そのすぐ先から起 こり、散り、消える。すると──何もないように見えていた空間が剥げ、カマキリに似た容姿を持つ、巨大な妖虫が青年の前にその醜さを明らかにした。
「!」
瞬間、彼は我が目を疑った。
─―しまった! はめられたっ?
青年は慌てて間隔を開いた。
そこにいるのは、妖火を操る妖虫などではなく、堅い甲冑を身にまとった土の……
先端の鋭くとがった、斧のような前足が地面に振り下ろされる。
他に何をしたわけでもないのに、大地が割れ、衝撃が彼の四肢を爆走した。
寸前で飛び退きながら、何というダメージ。炎では決して傷つかなかった青年の──落石にも痛みを与えられることのなかった彼の骨が、悲鳴に似た軋みをあげる。
「うっ」
ズサッと辛うじて足だけで着地すると、青年は口の中でぶつぶつと大地に対する守りを求める言葉を呟いた。
傷を癒すものではない。大地から別れた硬い土が、自分の妨げにならないよう、そう願った呪文だ。
青年は一方、目で妖虫との力関係を推し量っていた。力押しで勝てるかどうか──否、そもそも、あの甲冑を破るだけの力が、この状態で出せるのか。
─―火……風、それとも!
瞬時に心は定まった。
迷っている暇はない。相手はただの囮ではないか。早くしないと、永久に機会は失われてしまう。そう。彼女が着いてしまったなら──自分が土妖虫と戦っている間にも、彼女ならきっと本命の方を倒してしまうだろう。青年がどう思うかなど考えもしないで。
いや、考えたとしても、だ。
それが彼女の──そして、彼の仕事なのだから。
青年は腕を引いた。
比較的柔らかそうに見える妖虫の腹部を、じっとにらみ据えて。
シュッ
光が走る。青年の手を離れた銀色の塊が、加速をつけて飛んでゆく。
ビシィッ
前足の甲とそれがぶつかり、周囲が暫時スパークした。それは妖虫の片足に焼け跡を残し、全くでたらめな方向へはじけ飛んだ。が──
「行けっ!」
それより僅か、コンマ五秒ほど早く、青年は別な何かをそれに向かって投げつけていた。
紅の直線が地を走る。瞬間無防備になった右前部に、一気に炎が炸裂した。
それは、宮殿を襲ったのとは全く質の違う炎。
続いて、はじかれた武器の方角から、呼吸を合わせるように小さな竜巻が起こった。
風は火を巻き上げ、妖虫を炎で包み込む。
青年は走った。
妖虫が動きを抑えられている間に。
妖虫は身を焦がす浄化の炎に戸惑い、悶え、風を振り払おうともがいている。
何ダ、此ハ! コンナ物デッ邪魔ダ、ドケロォッ!
庭の対角から己の武器を拾い上げると、青年はまっすぐ妖虫に向き直った。
間合い十分。
「どけてやるよ、今」
低い声で呟き、炎だけを取り除く。妖虫も向きを変えた。青年に向かって。風の流れを誤らなければ、存外それはたやすかった。
妖虫にしてみれば、これでこの風が弱まれば、とも願ったろうか。流石になかなか前へは進めない。何もなければ前足一振りで引き裂くことの出来そうなほど、生意気な人間は、すぐ側にいるというのに。
けれど。
何故だろう。何の前触れもなしに風までもが止んだ。
青年がその言葉通りに、全てのいましめを解いたとでもいうのか。
あまりの唐突性故に、妖虫はその場でバランスを崩してよろめいた。
─―今っ!
青年の周りで空気が動く。彼でさえここまで見事に隙ができるとは思っていなかったが、逃すには惜しいタイミング。
武器は手中。
「はっ」
勢いをつけて飛び上がる。両手でそれを握りなおして、彼はその中心をなぎ払った。
ずばっ
鮮やかな銀の残像とともに、青年の手に確かな感触を与えて、行き過ぎた背中の向こうで、妖虫の姿が形を失うのがわかった。
青年は身軽に地面に降り立つ。
直後──
ぐらぁっ
世界が回った。
背中をぞっとするような冷気が襲い、目の前が暗くなる。
─―!
意識が遠のいていく。
最後に彼の瞳に映ったのは、焼け焦げた、大地の赤──────
使用素材配布元:篝火幻燈