カチ

 カタタ

 カシャン

 カチ

 

 

 酷く静かな部屋の中、椅子に掛けた彼女はそれを覗き込む。

 片付けられた机の上には、顕微鏡。

 手は膝の上。

 それでも倍率を変えるダイヤルはひとりでに動いて、ガラスの上の繊細なパーツを写し出している。

 

「園花」

 不意に背後から呼び掛けられた。

 びくり、肩を揺らすのに合わすように、視界の中の破片が散開し、砕ける―――寸前、静止。

 園花はプレートにかからないよう呼気に気を配りながらほうと胸を撫で下ろした。

 

「減点一。名前、呼ばれただけだろう?」

 内容のわりには柔らかい声色と言おうか、はたまた、言い様のわりには身も蓋もない言葉と言おうか、彼はいつもこの調子だ。

 三つ四つ歳上の彼は、自らの仕事のついでと称し、しばしば彼女のもとを訪れていた。

「惣さん……」

「そのまま続けてろよ、勝手に話すから」

 今日は何の用なのかと振り向く園花を制し、島原惣は彼女の正面にまわり、壁に背を預ける。

 色違いの眼差しが彼女の心境を見透かすように、じっと注がれる。

「わかりました……」

 居心地悪く身じろぎしたところで、事態が快方に向かうでもなく、園花は諦めて顕微鏡へと視線を戻した。

 見られていて気にならないはずはない。

 しかしこれは彼女の集中力の訓練でもあって、人一人に注視された程度で音を上げるなど、認められるものではない。この程度で困るようでは、人の前になど二度と出られないだろう。

 

 カタ

 カシャン

 コト

 

 園花が訓練に戻るのを待って、惣は苦笑とも微笑ともない息を吐いた。

 組まれていた腕がほどかれ、節くれ立った指が、長い前髪をかきあげる。

 ぴくっと園花の眉が動いたが、ガラス片はどうにか持ち堪えた。

 園花は心持頬を青ざめさせながら、

 

「悪趣味です」

顔は上げずに呟く。

 

 惣の額には、目立つ傷跡があった。

 形状も事情も違うそれは、ただ彼女が幼馴染みに負わせてしまった怪我と同じ部位だという理由で、彼女を動揺させる。

 膝の上の手は、きつく握り締められていた。

「悪趣味なのは、俺にこの役目を寄越した祐羅さんだろ」

 がしがしと乱雑に頭を掻いて苦虫を噛み潰す惣。傷跡はそのまま、彼自身のトラウマでもある。

「れはともかく」

 けれどもいい加減それをつつかれることにも慣れた惣はすぐに表情を切り替えて、言葉を継いだ。

「お前、近々昔の知り合いに出会すらしいってよ」

「え」

 

 

 カシャン

 

 

 パーツの並ぶガラスプレートが、音をたてて跳ね上がった。

 机の上に散らばった色硝子の破片は渦を巻き、衝突し、更に細かな屑へと姿を変えていく。それにすら構わずに、園花は惣を見返した。

「あー。減点……いくつだ?」

昔の、知り合い?

 苦笑のままに目を眇め、崩れ落ちていくガラス片を見届けた後、惣は今は黄金色をした己の右目を指し示した。

「名前までは知らない。こいつが、予言しただけだから」

「そう、ですか」

 呆然と、園花は呟いた。

 手を使わずにものを動かす彼女の力同様、惣の右目には不思議な力が宿っているのを園花は知っていた。その力が予見した未来なのであれば、訪れることは疑うべくものではない。非常に、困ったことに。

 

 

 園花は二回、その特殊な力で人を傷付けた。

 そのがために彼女は世間から身を隠し、己の力を正しく制御するためにこの場所にいる。大小なりとて特殊な力を持つ者の集団であれば、勢い余った力で傷付くこともなく、彼女を引き戻すこともできるから。

 つまり、一番近くにいたあの幼馴染みのような、深い傷を負うことはなく。

 園花にとっての昔の知り合いとは、すべからく、あの悪夢に関わる者。

 それを知っている彼が告げるのだ。

 覚悟が、必要だった。

 

 

 表情に露骨に出す彼女に、惣はふと苦笑を覗かせる。

 伸びた右手が、目の前に落ちたガラス片を摘む。

「この訓練を考えた奴の意図が分かるか?」

「意図?」

 集中と能力制御、それが園花の知るこの訓練の目的。それは勿論、彼だって把握済みのものだというのに。

 物問いたげな彼女の眼差しが、彼の指先、檸檬色の欠片の行き先を追う。

 

 っぱきん

 

「あっ!」

 彼女の目の前で、それは粉ごなに砕け散った!

「惣さん?!」

 園花は非難を籠めた目で惣を睨み付けた。

 彼女が長いことかけて、丁寧に扱ってきた一片。それを損なわれたのだから、憤りも甚だしい。

 惣は悪びれもせず、緑に輝く目で残るガラス片達を見据えると、

 

 ひゅっ

 ぱしん

 

 片腕を振り上げる。

 同時に先ほどに似た砕音がして、そこにあったそれは艶やかな花の図匠へと姿を変えた。

「な」

 園花は言葉を失う。

 桔梗の二。大きさは違えども、彼女がそれらを使った課題として提示されていた形の一つ。

 

 

「本物はソレの中だ」

 顎をしゃくられて、園花は顕微鏡を覗き込んだ。

 レンズの向こうには、今見たままの図形が、寸分狂うことなく、僅かも欠けたことない状態で描き出されていた。

「凄い……」

 甦った言葉は、感嘆の意を表す、その一語のみ。

「単なる受け売りに過ぎないけど、万華鏡ってのはちょっとしたことで壊れて、意味のない破片になったように見えても、すぐにまた意味のある形に結びつく。壊れたようで、壊れない。それはさながら"人類の歴史"のようなものなんだそうだ」

 左右異なる目で彼女の背中を見据えながら、惣は静かに語る。

「俺にはそこまでのことはわからないけど、人間関係も似たようなもんじゃないかって、そう思う……自分とか空間そのものとか、関係を修復させたいそ の相手が壊れてしまったんじゃない限り、やり直しはいくらでもきく。たった一度の衝撃で取り戻せなくなるほど、人は弱い生物じゃない」

「惣さん」

 園花は顕微鏡に片目を当てたままでつぶやいた。

 

 振り返ることができないのは、彼に対して後ろめたい気持ちがあるから。

 彼に額の傷をもたらした事件──詳細は教えられていないが、それによって彼の最も近しい人間が失われ、今彼が披露して見せたその特殊能力の大半が大事な人間の形見であるということだけは、園花も聞き知っていた。

 彼の苦しみと比べれば、園花の裡にある罪悪感など──

 

 がつんっ

 

 後頭部に与えられた衝撃で、園花は顕微鏡に額を強く打ち付けられた。

「った」

 額を押さえて涙目で振り返れば、

「なーにしょぼくれてるんだよ。今からそんなんでどうするんだ」

「惣さん!」

からかう表情でいつもどおりに惣が言うので、園花は勢いよく立ち上がった。

 おや、と片眉を上げてみせる惣。椅子を押し退けて、園花は彼に詰め寄る。

「いきなり何するんですか?!」

「悪い悪い。で、どうするんだ?」

「何がですか誰に出くわしてももー知りませんよ! その場の勢いでどうにかします!」

「はっ大きく出たな」

 ちっとも悪びれない彼にまくし立てれば、惣はしてやったりと口の端を大きく上げた。

 

 


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(061026)