「おーい、沖野さん!」塾への申請書を提出しに行った、その帰り道。
今の私とは正反対な、とても明るい声に振り返ったのは、名を呼ばれたからの条件反射というやつで、声の主を見た瞬間、笑みを浮かべたのも、きっとパブロフ犬的行動の一環に過ぎなかったんだろう。
「どうしたの? 元気ないね」
小首を傾げて訊ねてくるその人は、湊さんっていう、名字は知らないんだけど、高校入学以来時々街角で遭遇する、一つ二つ、年上の女の人。
フルネームも、はっきりした年齢も知らないのは、もともとは間接的な知り合いだから。
湊さんは私の中学時代の先輩の、彼女さん。前に一度先輩と一緒にいるところに出くわしてから、何を気に入ったのか、私を見かけるたびに声をかけてくれるようになったんだ。
初めて知り合ったときは高校の制服を着ていたのが、今は春らしい装いの、柔らかな色使いの私服姿。だから、多分先輩と同じで二つ上なんだろうかっても、思う。
「あはは、進路希望調査なんて紙が配られたりしなければ十分元気ですよ〜」
我ながらへたれた笑い。
勿論「本当の理由」なんて言えないから、申請書と交換で寄越された紙切れ一枚、表向きの理由にして肩を竦める。
すると湊さんは困り顔で眉を寄せた。
「確かにそれはねぇ……よし。それなら少し、お姉さんと気分転換、しない?」
眉を寄せたけど、それはあまり持続せずに、湊さんは手を一つ打ってそう提案する。
正直、気分転換、したいような気分でもないんだけど、なんだかそれすらも見透かされているようで、にっこり笑った次の瞬間には、手首を掴まれている。
今の私に振りほどけない力ではなかったけど、先輩の彼女さんに手荒な真似も躊躇ってしまうから、結果、私は湊さんに連れられて、少し離れたところにある、湊さん行き付けらしい喫茶店のドアを、潜っていたのだった。
やっぱり湊さんフルネーム出てこないですね(にやり)
これはWEB拍手導入開始から4月16日位までの間のお礼SSとしてアップしていたものです。
(051106)
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