緊迫感が全身を包み込む。
タイミングを計って、私はそいつの前に飛び出した。
「おん・ばざら・やきしゃ・うん!」
気合いを入れて拳を打ちつける。
私の目の前で光がはじけて、敵はあっけなく消滅する。
「早く、こっちも!」
気を許す間もなく誰かの声。
私は急いでそっちに駆けた。
ちゃちな守り札のついたカバンを盾にして、瑞生がなかなか手強そうな奴を相手に奮闘していた。
「おん・ばざら・やきしゃ・うん!」
──しかし、何も起こらなかった。
私はすぐ、別な真言を唱え始める。
「オン・アミリティ・ウン・ハッタ!」
今度は僅かに効いたらしい。
確かな手応えを感じて、私は奴に掴みかかった。
ダンッ
地面に向けてひっくり返す。
不透明でのっぺりとした人型の化け物は、ありもしない目で私を睨んでいるかのよう。
「ていっ」
その腹部のあたりに、手刀を叩き付ける。
妙にぐんにゃりとした感触が、ふ、と途切れる。
私は右腕を抜いて、すぐその場を離れた。
他の連中が気に懸かる。
背中を向けた床の上には、もう化け物の姿はない。
それが消えてしまうということは、とっくの昔に慣れてしまった事実だ。
私はただ、先に上の階に上げた友人達のことが――このような事態に決して慣れているとは言い難いダチのことが、心配だった。
非常用の階段に向かおうとしたところで、背後からコツコツという足音が聞こえてくる。
「!」
思わず身構えかけた私の目に、角を曲がってやってくる看護婦の姿が映った。
──なんだ……
途端、私は拍子抜けてしまう。
そうだ、ここは病院。もともと断りなしに始められたバトルなのだから、一般の人がいてもなんの不思議もない。
――とは言っても、本当は、機密事項のはずなんだけどねぇ。
ま、まあ、何しろ、今こうして一緒に戦ってくれている瑞緒達からして部外者なのだから、どうしようもない。
ところで。
この世の中には、オゾン層の破壊の結果生まれた、異界に通じる穴がある。
(正しくは、オゾン層の破壊の結果、空間に歪みが生じ、その歪みがあちら側、つまりは異世界――のねじれと結びついてできた穴、であるらしい。よく解らない)
世界のあらゆるところに出現したそれらからは、化性のものが数知れず地上に降り立つようになった。
私が先程から使っている術は、それら化性のものに対抗することのできる、生まれながらの能力であるらしい。
私達の生まれる数十年前から、通称ハンターと呼ばれる能力者達と化性とのバトルが、全世界の裏側において繰り広げられていた。
これがあんまり表沙汰にならなかったのは、全ての国々の共通見解として、下手な混乱を避けるためには、金と権力とその他諸々の力を使ってでももみ消そうと決定されたからだ。
政治家なんていう連中のことだから、本当はもっと別のところに思惑があるのかもしれないけれど、少なくとも、そのこと自体は正しい選択だったと思う。
ともかく、そんなわけで普通、このバトルが行われるのは、能力者達の結界の中である。
綿密な調査と、しっかりとした下準備のできた上で、一般の人々に迷惑のかからないようにするのが、この世界の不文律であり、ハンター達の基本であったからだ。
しかし、中には例外もある。
情報網の隙を突いて棲息する妖霊――便宜上、これからは化性の物共をこう呼ばせてもらうことにする――達がそれだ。
偶発的に遭遇したからといって、連中をやり過ごすわけには行かない。
それに何より、奴らは好むのだ。
一般の人々にはない不可思議な力を持つ、我々能力者達を、普通の人々よりも。
勿論、それを捕食せんがために。
病院にただ見舞いに来ただけの私が、この界隈に隠れ潜んでいた妖霊共と出会したことは、だからある種の必然であった。
その結果として瑞緒達を巻き込むことになってしまったのは、不幸としか言い様もない。
けれど、幸いなことに、彼女らは私達に変わった力があるってことだけは知っていてくれたから、怯えながらも私達を信頼し、力を貸してくれたのだ。
特別な力を持ってない人間でも使える、聖水で溶いた墨文字の護符を使って。
私達──そう表現したのは誤りではない。
ハンターとして独自の組織に認定はされていないが、あたりの物を浄化させる能力を持った友人が一人、いた。
名を多田晶子という彼女は、今、残りの連中を連れて上の階にいる。
というのは、単に私達が見舞うはずだった友達がその階にいるからで、ちょっとした手違いからエレベーターに乗り損ねた私と瑞緒は、かっきり一階分だけ彼女らに遅れをとってしまった、というわけである。
その原因が、靴の紐が解けただの、曲がり角を間違えただのという情けないことであるのはこの際放っておくことにして、問題なのは、途中でエレベーターが止まったことである。
幸いに、どちらの箱も人の出入りできるだけの隙間のある位置にいるときで、やっと這い出て歩き出そうとした矢先、例の、妖霊独特の嫌な空気を感じたのだった。
それは、その濃度ならば、私より力の弱い多田であっても間違いなく気付けるほど、ひどい気配であった。
「他の患者さんの迷惑になります。病院内は走り回らないように御願いします」
何も知らない看護婦は、近付いたとき極めて当たり前のことを言った。
勿論、私だってそんなことぐらい言われなくったって分かっている。
その、他にたくさんいる人のためにこそ、私は急いでいるのだ。
思いあまった妖霊共が、彼らを生きる糧としないように、と。
「あ……」
ぐぅ……ん……
私が口を開きかけたとき、唐突に新たな気配があたりを覆った。
身に覚えのない、強力な力。
攻撃的で、冷ややかで――その力は、上の方から渡ってくるように思われた。
「瑞緒は待っててっ!!」
看護婦は無視して、瑞緒にただそう叫ぶ。
上の階で何かあったのかもしれない。彼女をその何かに巻き込まないための選択だった。
少なくとも下の方は、まだ、瑞緒の鞄の札だけでも守り切れるだろうという読みもあった。
「わかった、気をつけて」
瑞緒は緊張した面持ちのまま、言葉を返した。
多少の空気の変化ぐらいは感じ取っているのかもしれない。
私はその声を背に、一息に階段を駆け上った。