しん……とした空気がある。
廊下に人影はなく、私は警戒しながらも、急ぎ足で病室の方へと進んだ。
「沖野!」
右手前方から多田の声がした。
そこまでに危険がないのを確かめて、私は更に足を早めて多田のところまで走る。
「どうなってんの!?」
問いかけたのは、その場の気配が、全く平常のものとして落ち着いてしまっていたからだった。
あの、凄まじい濃度の妖気は、欠片もない。
「何か、知んないけど……急に退散したみたい」
しかし、この状態に驚いているのは、彼女も同じようだった。
驚いたりしている以上、そして、この階にも妖気が満ちていたことは確かだったらしい。
だが、この私の驚きは、すぐに別なものに変わることになる。
「他のみんなは?」
気を取り直して私は訊ねた。
「え、とりあえずそこらの病室に」
多田が答え、指さした病室が、その時にわかに騒がしくなった。
四人部屋に、二人分のプレートがかかっているのがちらりと目に映る。
多田と顔を見合わせた後、私はその病室に飛び込んだ。
「ええっ! ちょっと! 沙霧君はぁっ!?」
「……霧さぁんっ! 何で、どうしてぇ?」
途端――黄色い声の団体さんが鼓膜に押し寄せる。
それを聞くに至って、私は肩の力を抜いた。
ううん、脱力、した。
──何だ、そ、か。
私は他の連中が無事でいるのを軽く目で見てから、とんとん、と多田の肩を叩いて外に出た。
「完璧、うん、全然へーきだわ、もう。で、悪いんだけど、みんなと先に行ってて」
言いながら、きちんと病室のプレート見返して、一人うんうんと頷いてしまう。
──だいたい“沙霧”なんて名字、滅多にないものなぁ……
「沖野は?」
「え、ちょっと……」
そこで言葉を濁したのは、これから行く先を知られたくないからだった。
手を合わせて頼み込むと、多田は釈然としないまま、何とか頷いてくれた。
「それじゃ、下に瑞緒いるから」
そうだけ言って、一反階段の方へ戻る。
そっちの方に目的の相手がいるとは思わなかったけれど、不審そうな多田の目が追ってきていたのだ。
確かめるまで、とりあえず見つかるわけにはいかない。
一つ上の階を通って、奥の方の病室へ向かう。
階段を、降りる。
その方角へ向かおうとしたのは、はっきり言って、予感、でしかなかった。
私は一部屋ずつのプレートを、眺めて歩いた。
その人がいるとしたら、この階の、無人の……
思っていた矢先、名札のない部屋を見つける。
カチリ なるべく音をたてないようにして、そのドアを開けた。
人の気配が、ある。
「……沙霧、さん?」
声をかけながら、私はドアの隙間に身体を滑り込ませた。
ベッドと毛布の間で身じろぎする、誰かが確かに、いた。
「……あの、私、です。……H2の、《智依名》です……」
私はその誰かに向かって話しかけた。
――ここで、もう一つ話しておかなければならない。
前にも少しだけ触れたが、私の所属する組織のことだ。
ハンター達の組織は、大きく二つに分けることができる。
一つは、大企業や巨大資本によって運営される、完全な営利目的な組織。
これは、実際には幾つにも分かれてるらしいんだけど、やってることが殆ど同じなので、この際一つにまとめさせてもらう。
そして、もう一つは、この世界における永世中立国SWITHERLANDに本部を置く、国際的ネットワークを駆使しまくった、そのわりには枝分かれが激しいボランティア団体。
こちらは一応、国連の所属ということになっている。
あと、流れ者の、本っ当の意味でハンターと呼ばれるべきかもしれない連中も、いることはいる。
けど、それってごく少数だし、だいたいが組織なんて作ってるわけないから、とりあえず置いておくことにしよう。
共通するのは、自分の所属する組織のことを、むやみやたらに明らかにしてはいけないってこと。
(ああ、考えれば、妖霊の存在自体が秘密にされている以上は、ごく当たり前のことなんだ)
その一員になるには、相手から声をかけられる以外に方法がない。
それで、私が所属しているのは後者の団体、その名もズバリ”HUNTER'S HOME”(略称:H2)という。
きっかけはただ単に、2~3年前、この組織の人と知り合ったから、というだけのこと。
で、多田のことは組織に連絡してはいるんだけど……判定はまだでていないから、組織がらみのことは話せない。
だから、彼女達を先にやったのだ。
この、沙霧さんという人が、私とH2を引き合わせた張本人だったから。
「……! ……」
毛布が動いて、やっぱり沙霧さんが顔を出す。
──うぅっ、これで別人だったら虚しかったぞ、沖野。
沙霧さんは私を覚えていてくれたらしく、他に誰もいないのを確かめると、きちんと身を起こした。
無地の白いシャツに、ブラックジーンズ。
顔色も全然病人らしくない、普段のままの格好。
ま、まあ、パジャマなんて着てたら嫌だけど。
断っておくが、沙霧さんという人は、整った顔立ちに切れ長な目の、美形に類する人物なのである。
不意打ちで見るのには刺激が強すぎる。
「……お前、何でこんなところに……?」
「あの、友達、入院してるんです……」
聞かれたので、そう答える。
間違っても、仕事としてきたわけじゃ、ないよなぁ?
すると、
「そ、か……」
沙霧さんは薄い笑みを浮かべた。
そうすると、日に焼けていない白い肌に、漆黒の瞳がとても綺麗で、だからといってそんなことを言うわけにもいかず私は黙ってしまった。
沙霧さんはもともと無口なお人だから、病室の中はしんと静まり返る。
自然、さっきのあの女の子達(沙霧要ファンクラブ(仮名)としてしまおう)の声が、微かながらも届いてくる。
仮にも病院の中だというのにこの騒ぎぶりもどうかと思うけど。
──そういえば、沙霧さんてば、あの強豪校の弓道部員だよね……?
だから余計もてるのかなぁ……え、えぇいっだからどうした!
「あ、あのっ沙霧さんっ」
「……頼むからボリューム抑えてくれ」
あまりにも脈絡のなさ過ぎることを考えるもんだから、中身を切り替えるのに、やたらと気合いを入れすぎてしまった。
沙霧さんの言っているのは、多分、彼女達に聞こえないようにしてくれ、という意味なんだろうから、つまり、よっぽど大きな声だったというわけだ。
「……もしかして、さっき“消し”ませんでした?」
今度は大きさに気をつけて、言う。
知りたかったのはこのことで、別にこの人に何人ファンがいるとか、そういったことは関係ないのだ。
「気付いたか。この階担当の看護婦が、入れ替わられていた。おまけに、この階には能力のあるスタッフはいないようだったから、急ぐ必要があった」
「ええっ!? 下にもいませんでしたよ? だから、一般の友達まで巻き込んじゃって……」
二人して、はっと顔を見合わせる。
ホールがあちこちに開くようになってからというもの、主な公共施設には、少なくとも2~3人の能力者がいる、ということが我々の間で常識となっている。
特に病院。 マイナスの気がたまりやすく、同時に身を守る術を持つ者が少ないこういった施設では、各棟の二階に一人は配置されるのが当たり前なのに……
「「ホール……ポイント……」」
声が重なる。
考えられるとしたら、いなかったのではなく、いなくなってしまった、ということ。
もしかしたら、沙霧さんが消した妖霊に入れ替わられていた、その看護婦こそが、能力者の一人だったのかもしれない。
新しいホールが生まれやすい環境では、自然、妖霊共の力は上がるようになる。
そのホール候補地を、ホールポイントというのだ。
だとしたら、
「やはりな。……確かめる。手を貸してくれ」
沙霧さんは即座に言った。
何か、予兆めいたものがあったのかもしれない。
物凄く驚いた、というような表情ではなかった。
鋭い眼光が、まっすぐこちらに向けられる。
仕事に入るときの、ハンターの、顔。
「はい」
言葉通りに手を出しながら、私は答えた。
手を開いて、左右の人差し指と親指の先をくっつける。
その上に、沙霧さんが同じようにした手をのせた。
「始める」
沙霧さんの言葉で、術が開始される。
これまで、サポートしているコンビがやっているのは見たことがあったけれど、実際にやってみるのは初めてだ。
空間の歪みを調べるための、精神集中。
最低、二人以上の能力者が力を合わせることによって、実行することができる。
私は、沙霧さんの指と指の間の空間を、瞳を凝らして見つめた。
青い空の、一部がぼやけて見えるヴィジョン……それを見届けるとすぐ、沙霧さんはさっと構えをといた。
「本部へ!!」
はっきりとした声で命じる。
私は一も二もなく頷いて、病室を後にした。
電波が立つ場所を確かめるのももどかしい勢いで、本部(とは言っても、正確にはこの県の本部、というだけなんだな)へのシークレットナンバーをコールする。
『はい、こちらは……』
「あ、19025V43、コードネーム《智依名》市立病院内から、ホールポイントらしきものを発見、指示願います!」
言葉をかぶせるようにして、言った。
正直、少し焦っている。
『確認。本人と認めます。次の通り行動して下さい……』
オペレーターの言葉に続いて、やたらと専門用語が飛び込んできた。
うぇーん、ややこしい。
こっちはコンビ経験皆無の、万年サポート組なんだぞぉ!
おまけに、い、今っ出てきた“封殺”なんてっつい最近に覚えたばっかの……こっこのいたいけな(?)女子高生にっ!
そんなバカなことを考えているウチに、電話が切れた。
『健闘を祈ります』だなんて、そんな言葉残して。
うぅっぐちぐち……
愚痴りながらも、身体は勝手に屋上に向かっている。
何はともあれ、現場に近付かなきゃあ……
私は流石に敵の姿が増えてくる階段を駆け上って、ひたすら屋上を目指し続けた。
本当、この病院って何階建てだっけ?
ギィー……ばたん それまでの連中は、まあ何とか適当に蹴散らしておいて、やっとの事で最後のドアを開ける。
強い風が、私の髪を巻き上げた。
いい風、じゃあない。
見上げると、沙霧さんの(隠れていた)病室で見た、あのヴィジョンと同じような空が広がっている。
どうやら、間違いじゃない。
私はおもむろに、ポケットから小刀(小学校の図画工作の時に買ったっていう、ごくありふれた小刀だ。
まあ、苦労して手に入れた明王の守護 八つの梵字 がつけられてはいるけれど)を取り出して、鞘から抜きはなった。
そのまま、足元の、タイルの隙間にがきっと突き刺す。
ちょっと手が痛い。
そして、
「おん……」
ゆっくり、ゆっくりと光明真言を唱える。
――私の属性は、どういう訳か言霊系だとかで、一々こんなことをしなければならない。
大きな力を使うには、真言だとか、呪文みたいなものを唱えて、手続きしなければならないのだ。
「……はらばりたや・うん!」
両手と柄の間から、強い光がほとばしる。
物凄い量のエネルギーが、天空へ向けて放たれた!
「なうまく・さん・まんだ・ばざら・だん・かん!」
続いて、もう一つ真言を唱える。 同時に小刀を振り上げて……
「封殺!」
術力が空間を引き裂いた。
反動で、全身がびりり……と震えるような感じがする。
けど、そんなことで力尽きてる場合じゃない。
出入り口を広げようとしている輩が、さっきのエネルギーの反動からさっさと立ち直って、邪魔者を消そうと隙を狙っているのが、はっきりと感じられる。
あのね、本来こういうのはコンビを組んでいる人間がやるんだけど―――
つまり、一人が封じ系能力を使って、もう一人がそのガードをやるってわけ。
前記の通り、私はまだ組む相手も決まっていない予備戦力で、いつもなら、誰かがするのを支える側。
自分主体で誰かと行動するっていっても、せいぜい未認定の多田ぐらい。
大体、今回みたいに組織から入手した方法使うんじゃ、そうそう多田に頼むこともできないし。
……え? 沙霧大大大先輩はって?
沙霧さんは、まだまだ病院の中にもわいてくる連中から、一般人を守らなくちゃならなくて、中からは動けない。 フォロー、念のため)
──あぁあ、多田さえエージェントに登録されれば、こんな面倒しなくてすむのにぃっ
私は抜き放ったままの小刀で、連中に斬りかかっていった。
「てぃっ」
ずば、と嘘のような音がする。いつもながらに、変な感じだ。
もーちょっと、手応えってもんがねぇ……まるで、こんにゃくか何かを切ってるみたいな感じがする。
もっとも、今私の目の前にいる連中の大半が、スライムもどきのゲル状物体だからってこともあるんだろうけど。
「破っ!」
無造作に薙ぎ払う。
連中も、相当切羽詰まってるんだなって、わかる。
術放つ方向に、真っ正面から飛び込んでくる愚か者が多くいたから。
おかげで、幾らかやりやすい。
始めの“封じ”の力のせいで、私はかなり消耗していた。
――前に愚痴ってた通り“封殺”は、最近何とかちゃんと使えるようになった技の一つなのだ。
おまけに相手は、数だけはやたらと多い連中で、半分までかたしたあたりで、もう息が上がり始めてしまう。
ミジュクモノであるという自覚はあるが、それにしたってこれはヒドイ。
運命と組織と妖霊共とが、仲良くみんなでグルになって遊んじゃってくれている気分だ。
ぜぃぜぃ……あぁしんどい……
「……三、二、一……ラストぉっ」
喘ぎつつ、ついに全部の始末をしたのは、かれこれ三十分を過ぎたあたりで……へろへろになった状態で、倒れるようにしてドアを開ける。
──とりあえず、塞ぐの塞いじゃったら、暫くここら辺からわくことはないはずだっ
それにしても、血が足りない。
私はそのまま、階段に座り込んでしまった。