戦い果てた日の夜──璃有らに宛がわれた天幕を尋ねる、一つの影があった。
「朱宝さん、今、いいですか?」
食事を終えて、強張った体を敷布に伸ばしていた紅朱宝は、そのままの姿勢で首を傾ける。彼女の視界では横向きに映る、ひょろりとした印象の少年兵は、本日共に戦場を駆け抜けたピカタ・リウェラス。彼の手には、何か黒い塊があった。
けれど、朱宝が何か言葉を発しようとした時、外から戻ってきた巨漢の影が
「おう、坊主。お前も夜警じゃねえだろ? 休まなくっていいのか」
「楓軌殿、いえ、用を済ませたらすぐ戻ります」
「なら良いんだけどよ」
「じゃ、楓軌哥、こうた〜い」
ピカタの肩が解放されるのを待って、朱宝は片手を大きく上に伸ばした。
「あんま油売ってんじゃねーぞ」
「楓軌哥じゃないもんね」
立ち上がった朱宝は、楓軌と軽口を叩きあいながら天幕を潜り出る。
別に何処かに連れ出すつもりでもなかったピカタは、少々戸惑って彼女を見つめる。
「いいからいいから」
朱宝はへろへろ笑って、左手を上下にしならせる。
まるで、酒にでも酔っているかのようだ。
ピカタは眉を顰めた。
戦闘後の処理が未だ終わらないために、戦勝の振舞い酒は先延ばしにされている。それにそもそも、彼女の天幕から酒の臭いは微かにも感じなかったから、本当に酔っ払っているわけではないことぐらい、彼にもわかる。
けれど、水瓶の縁に片手を預けてふらりと佇む彼女の姿は、支えがあっても真直ぐ立てるのか、見ている彼の方を不安にさせるほどだった。
「で、何だっけ?」
「これ、昼間の戦いで朱宝さん落としてしまったでしょう?」
首を傾げる朱宝に差し出せば、彼女はああ、と頷いてピカタから小振りの双眼鏡を受け取った。
「アリガト。これ使いやすいから助かったぁ〜」
にっこり笑い、青少年の目の前だというのに、気にもせずに懐へしまう。却ってピカタの方が気を遣って、うろうろと視線を彷徨わせた。
戦場独特の熱気は流石に失せたが、未だ陣内には高揚の名残や緊張が渦を巻いている。なんといっても敵の大将は取り逃がしてしまったし、捕虜を多く抱える軍が、気を抜けるはずもない。
確実にその事態の一端を担っている筈の彼と彼女が、こんなところで歓談するというのは何だか心苦しい限りだ。勿論、彼だって歓談するつもりで彼女を訪ねたのはないのだけれど。
「ピカッちはいい子だね〜」
そんな彼に、朱宝はしみじみとした言葉を投げかけた。ピカタが危ぶんだとおり、体勢を保っていられなくなったのか、彼女は水瓶に背を預け地面へとしゃがみこむ。
思わず、溜息が出た。
「子ども扱いしないでくださいよ。ほかの人たちから見れば、俺も貴女も同じ様なものじゃないですか」
「ふふふ〜」
朱宝は膝に肘を突いて、含み笑う。
前言撤回するでもなく、彼の言葉には、同意も否定も返さない。代わりに、
「来てくれてアリガト、ちょっちあそこに居たくなかったんだよね」
声を潜めて呟いた。
「え?」
ピカタは思わず訊き返す。
あれだけ息の合った、睦まじく頼もしい義兄弟達。その信頼関係を目の当たりにしたばかりで、彼女の言葉は何かを聞き間違えたかと思った。
「私、偽善者だから」
朱宝は益々声が聞き取りづらくなるような、膝を抱えた姿勢で独白する。
「璃有哥程にも、割り切れない。楓軌哥達に押し付けてる。ただ綺麗事、言ってるだけ」
「朱宝さん……」
ピカタに思い当たったのは、再度の合流以後、まるきり後衛に下がって集団戦闘に加わろうとはしなかった彼女の姿。
戦いの火蓋が切って落とされ、伏兵に分断され、中隊長を追い駆けた。そこまでの目覚しい活躍ぶりと、精彩を欠いたそれ以降の働きとを、体力の限界以外で表現するとするなら──
「俺も、無駄に人が死ぬのは懲り懲りです」
「はは。大抵のヒトはそうなんじゃない〜?」
朱宝は苦笑して立ち上がった。
衣服についた土を払い、それから大きく伸びをする。
彼の慰めがどれだけ効いたのかは判らないが、少なくとも、心情の一部を吐露することで、幾らか気分が軽くなったのだろうか。
「とっくにカクゴは決めた筈だけど、こんな戦場相当久々だからね」
「はい?」
「こんな事、ピカッち達位にしか話せないって言ったの」
声にも張りが戻り、朱宝はいつもの調子でピカタの背を叩いた。ピカタは照れくさくなって、態とぶっきらぼうに
「痛いですよ!」
と、彼女から我が身を遠ざけた。
軽口に紛れて、先の意味深な言葉をまんまと誤魔化されてしまったことに、彼が気付くのは、就寝後のこと。
この日、この二人が上げた首級は0。全て生け捕りか、別の誰かが止めを刺していたり。