蕃佑の予想通り、それから程なくして、本隊進軍開始の太鼓の音が戦場一杯に響き渡った。
その音は苦境に立たされた籠虞の耳にも確りと届き、彼らに合流せんとする二人の下にも届いていた。
部下達が援軍到来の予感に俄然張り切りだす中、籠虞の表情にはかすかな焦りの色が見える。
名家韻家の名代として参戦している以上、格下の嵩軍や洪軍に遅れを見せるのは彼の自尊心が許さない。増して、苦境に追いやられた挙句、成り上がりの堆穿等に救われたとあっては、彼以上に自尊心の高い若当主からの信頼はがた落ちとなるだろう。
「大体、堆穿の野郎が烏合の衆なんざ押し付けやがっから!」
「籠虞殿!」
ぐさっ
集中力を欠いた彼の背後から襲い掛かって来た、敵小隊長の脇腹を、副官の細剣が深く抉った。体勢が狂ったところを、更に容赦のない斬撃が攻め上げ、止めとする。
「手前っ!」
籠虞の双眸に暗い怒りの炎が宿った。
敏感に察知した彼の部下は、咎める視線をちらちらと出すぎた真似をしでかした副官へと向ける。
「申し訳、ありませんでした」
副官は淡々と謝罪の言葉を述べると、再び剣を振るい、近付いてきた敵を牽制にかかる。籠虞は忌々しげに舌打ちして、ぐっと事切れた敵小隊長の腹部を踏みつける。
鎧を乱暴に蹴飛ばせば、鎧下に階級を現す軍章を見つける。籠虞はそれを大剣で掬い取ると、大音声で宣言した。
「こそこそ隠れて居やがる腰抜け将など、この籠虞様の敵ではないわ!」
楓軌、紅朱宝が駆け込んだのは、丁度この時だった。
流石の二人も、気勢を上げる籠虞と、対照的に淡々と敵を沈める副官の対比には気を削がれ、一瞬呆けて立ち尽くしてしまう。
そこへ。
キィンッ
金属を弾く音がした。
「戦場でぼんやりするものではありませんよ」
あくまでも淡々と、表情のない声が、朱宝へと向けられる。
側面から彼女を狙った敵兵は、飛び込んできた女性兵士に剣を弾かれ、大きく後退した。
女性兵士は全身を真っ赤に染め、休む間もなく次の攻撃に移っていく。
朱宝は自分が前に出すぎていることに気付いた。
「楓軌哥!」
「おう」
楓軌は鉾を振り回し、彼女に近付く敵を薙ぎ払った。
手負いで向かってくる相手に、情けを掛けている余裕はない。そう判断して、今度は刃の面で容赦なく敵を散らして行く。
噴出す真紅、むせ返る血の臭いに、朱宝の瞳が揺れる。
しかしながら、彼女は動きを止めなかった。
迷うことなく戦場に背を向け、やや離れたところに山と積まれた材木へと駆け上ると、再び争いの渦中へ向き直る。
番えられた矢の先は、味方を取り囲む敵へ、真直ぐに向けられる。
ぎり……シュッ
「この矢は」
目の前で利き手を射抜かれた敵を見て、初めて女兵士に表情らしきものが浮かんだ。
楓軌はぶんぶんと鉾を振り回しながら、彼女に小さく頷きを返す。
「感謝します」
屋根に上っていない彼は知らなかったが、彼女こそが、射掛けられた一矢から、いち早く伏兵への警戒に移った一人だった。
朱宝は材木の上から次々と矢を放ち続けた。
楓軌が蓋のような位置で頑張ってくれているため、敵はなかなかこちら側には入ってこれない。それに、敵の中心で、返り血かそれとも己の出血かわかりかねる ほどに、全身を真紅に染めた籠虞が暴れまわるため、離れた位置にいる彼女にまで敢えて仕掛けようとする敵も、そう多くはなかった。
「ちょー感じ悪ぅ」
矢を射掛けながら、改めて間近に籠虞の戦いぶりを観察した朱宝は、口を尖らせて呟いた。
矢筒は間もなく空となりそうだったが、今度は乱戦の中に飛び込もうとはしていない。
僅かではあるが高いところに立つ彼女には、勢いに乗った嵩軍が押し寄せてくるのが視界に入っていたし、背後から、味方の軍勢が追いついてくる物音も聞き取っていたからだ。
朱宝は最後の矢を、籠虞が踊りかかろうとした敵の足元へと引き放った。
見事脹脛を射抜いた矢によって崩れ落ちた敵は、籠虞の視界から外れ、多々良を踏んだ籠虞は、怒り狂って、次に掛かって来た兵長を一刀両断に切り伏せた。先の兵士は、斬り捨てられる代わり、血塗れの拳で米神を殴打され、その場に昏倒した。
「おおうい!」
味方の到着を告げる大声が、朱宝を呼ばわった。彼女はほんの僅か、方の力を抜く。
籠虞の個人的な思惑は余所に、各隊は続々と敵本陣への通過点・北門前へと集結しつつあった。
北門に陣取っていた残兵も、瞬く間に蹴散らされ、籠虞を梃子摺らせていた小隊長は、騎馬で駆け込んできた蕃佑の一撃で、あっけなく地へと沈んだ。
意気盛んな各将が揃い攻め込むのに、敵大将幻緑が打つ手は、いまや殆ど残されていない。
勢いに乗った討伐軍が本陣へと乗り込んでみると、幻緑は僅かな側近だけを連れて砦を放棄した後だった。
あまり生々しいシーンは少な目を心がけたのですが。