旅人の行く手を遮る関も、残り一つとなっていた。

 早馬を用いても数日の距離は、馬車や従者を抱える一行には一週間近い日数を必要とした。

 合流当初は玉蘭を警戒して、着かず離れずの位置にて野営を張ることを求めてきた蕃佑だったが、流石に事ここに至っては佳鈴の願いもあって、恐らく最後となる野辺での夕食を彼女と共にしていた。

「しかしよもや、本当に開門のための伝吏であるとはな」

「最初からそのように申し上げております。血の気の多い者では却って乱闘を助長しかねないと、我が君が令を下されねば、私は今頃謹慎の身ですから」

 蕃佑が溜息を吐くと、倍の言葉が返って来る。その台詞に後ろ暗さを憶えるのは佳鈴。彼女は表情に影を落として、

「私の、無茶のせいですわね」

玉蘭は頭を振った。

「佳鈴様のお立場を思えば、致し方ありません。強いて私が蒙った被害を申し上げるとするならば、根拠薄弱のとある讒言のもたらしたものの方ですから」

「讒言、というのは嵩萄殿との……?」

「それは江軍令が先の流言を止めるため、意図的に広めたものなのですが、佳鈴様のお耳に入る頃にどれだけ鰭がついたのか、考えるだに気鬱となりそうです」

 玉蘭は重い溜息を吐いた。

 がくり項垂れ首を振る彼女が、もう少し髪を伸ばしていたらば、粥の入った椀の中でちょっとした惨事が生まれたことだろう。

 しかしながら、幸い、彼女は戦の邪魔とならぬようそれを短めに切りそろえた上で、顔にかからぬよううまく纏めていたので、その場にはいるが会話に参加していない人々を冷や冷やさせただけですんだ。

「と申されるということは、やはり叙宵殿との噂は蜚語の類であったのですな」

「ああ、蕃佑殿も鎌をかけられたのですね。貴殿の人となりを知らなければ、離間の計かと危ぶむ所なのですが……」

 玉蘭は首肯の後、「少なくとも佳鈴様の耳に届くところでこのような手段を取られる方ではない」と声には出さぬままに続けた。

  蕃佑に対する諸侯らの警戒がいつまでたっても消えなかったのは、良くも悪くもその真面目さ故のもの。彼は一心に璃有のために行動し、璃有の奥方である佳鈴 を守るために、嵩軍の客将として存分な働きを見せた。そのどちらかが多少なりとて折れ曲がっておれば、そこまでの期待や疑心をかけられることも無かったの だろう。

 分析することと納得することとは、また別問題だった。

 玉蘭は「ふむ」と眉を寄せる蕃佑や、頬に手を当て心配そうな眼差しを向けてくる佳鈴に、更に己の心情を語り聞かせる。

「そ も、中央官令の気風の強い譽州や蔚州で、家を背負って立つ訳でもない女人の将が、天軍の中枢近くに居座ることを快く思わぬ者も多かったのでしょう。我が君 は斯様な慣習に囚われる狭量ではありませんから、私のような者でも躊躇わずに重用して下さるのですが、神仙ではなき御身であれば、噂雀の飛び交うのを、た だ一筆で白紙に返すことはできません」

 空になった椀に、女中が食後の茶を注いで回る。

 眉を八の字に下げた佳鈴は何事かを言いたそうだったが、声には出さず、玉蘭の話し続けるのを待っている様子だった。

 玉蘭は茶を啜り、咽喉と心を落ち着かせてから

「私は……草臥れたのかもしれません。私の出身は、ここより更に都から離れた田舎町ですから、宮城の作法には馴染み切れません。証立てする為に主の夜枕に侍る事を、どの己もが良しとは認められぬのです」

「しかし……叙宵殿との間に何も無いのであれば、そこまで気を揉まねばならぬこともあるまい」

「蕃 佑殿や叙宵殿が頑なであられるので、私や松傲もいつか離れるのではと煽る者が居る事はご存知でしょう? 先程佳鈴様の所為では無いと申し上げましたが、か の噂に加えて失態が発覚した以上、他の臣の心情を量りつつ私の現在の位置を保つには、自ずから道は限られてくるのです」

「玉蘭様、私……」

「佳鈴様を責めるつもりで申し上げているわけではございません」

泣きそうになっている佳鈴を片手で押し止めた。

 茶の残りを呷り、手巾でぬぐった器を、礼を言って女官に渡すと、懐から例の書状を取り出す。

「「可憐将軍」は、ここから先共には行けません」

「どうされるおつもりか?」

 再び警戒の色を宿し、蕃佑の目が玉蘭と書状の間を行き来する。彼女の指先は、その書状を彼の前へと押し出した。

「私は、この国を出ようと思っています。しかし、その許可が下りる事は決して無いでしょう」

「我らを、逆に利用する算段か」

「あなた方が脱出を試みられたことが実質的な契機であれば、その責任を負っていただきたく」

 玉蘭は態とその言葉を使った。

 真面目で義理堅い蕃佑と、始終負い目を感じている様がありありと判る佳鈴。この二人であればこそ、玉蘭の置かれた状況とこの申し出を一蹴することは無いだろうと、予想可能であった。

「しかしその後には如何か」

「郷里に帰り、父母の墓に参りつつ、我が身の幸せというものについてを見つめなおしたいと思っております」

 渋る蕃佑には、予め用意済みの答えを。

「確りと目的が定まらないのでしたら、私達と一緒に参りませんか?」

「いえ──私は私が決して偽らぬと決めた人物に、決して璃有殿の配下には降らぬことを誓いましたので」

 誘いかける佳鈴にはきっぱりと拒絶の意を。

 すらすら返す言葉を、それぞれ相手の真正面に向かって告げる彼女の様子に、漸く蕃佑は玉蘭の本気を実感したようだった。

 玉蘭は反論の声が収まるのを待つと、身につけたままであった伝吏の外套を脱ぎ、丁寧に畳んだ。

 次いで、佩いていた剣に、彼らの見ている前で祭礼用の飾りを巻きつけ、

「酪斜を抜けるまでの間、我が愛剣は佳鈴様に、我が愛馬は御者殿にお預けいたします。それでもご不安であれば、どうか荷を改めください」

書状と剣と、それぞれに差し出されたものを、蕃佑と佳鈴はその手におさめた。

 玉蘭は心中で、ほお、と息を吐き出した。

 彼女にとっての、第二の関門を、これで突破したことになる。

 蕃佑が断わりの上で改めた彼女の荷物にも、なんら彼等が疑いを強めるべき要素は見出せずに、特に女性達の同情が強まるばかりであった。

 

 そして彼らの協力の下、玉蘭は佳鈴付きの一女官として無事に酪斜の関をも通過し果せる。

 

「本当に、一人で行かれるのですか?」

 佳鈴は心底彼女を案じるように問いかけてきた。

 玉蘭は飾りを施したままの剣を腰に佩き、馬車から放されて戻ってきた愛馬の鬣を優しく撫でてやった。

「故郷への道程はさして遠いものではありませんし、副官達も私に着いて来てくれるようです。それなのに私だけが目的地を変えるわけにもまいりませんから」

「残念です。朱宝殿も玉蘭様がいらっしゃればさぞ歓迎したことと思いますのに」

「風向きが変わればまたお目にかかることもありましょう。ただいまは、お気持ちだけありがたく頂き、行かせていただきたく存じます」

 一礼をしてみせる玉蘭に、佳鈴は心残りな眼差しを送っていたが、蕃佑や女官達に促されて渋々馬車の奥へと引っ込んだ。

 代わり、蕃佑が玉蘭に馬を寄せる。

「何事が貴殿をそう決意させたのか、やはり私には理解しかねる。しかし奥方がここまで絶望に苦しまれること無く在られたのは、貴殿の細心の賜物なのであろう。なれば、私も貴殿のお人柄を信じよう……達者に過ごされよ」

「こちらこそ、我儘につき合わせ申し訳ない。蕃佑殿と佳鈴様の残る旅路も、何事もなきよう願っております」

「「では御免」」

 示し合わせたようなタイミングで、両者は馬首をそれぞれの目的地へとめぐらせた。

 ここまで旅立ってしまった以上、迷う余地はもう何処にもなかった。

 こうして蕃佑・佳鈴は璃有のもとへと帰還を果たし、そうして、翠玉蘭は暫し、世間から姿を隠した。

 数週間の間を置いて、彼女の失踪は発覚する。

 それと時を同じくして、彼女の腹心達もまた何処かへ姿を消した。

 残された家財の中より発見された、彼女の耳飾を握りしめて奥歯を噛み締める男が一人──彼の胸中に吹き荒れる嵐が如何なる種類のものであるのか、真に把握する者は本人も含め、その場には誰一人存在しなかった。

 

 

 

 

 

 

戻 基 


 ひとまず、蔚篇の中盤から後半のエピソードはこれでおしまい。前半や、牧篇、梧篇はまたそのうちに。
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