「ちょ、きゃ、わ、そっ……きゃわーっ!」

 突如上がった若い娘の声に、楓軌は「すわ、狼藉者か?!」と振り返った。

「ちょーっと退けてぇそこの人ぉぉ!」

 切羽詰った悲鳴に続けて、がさがさ茂みを掻き分けて近付いて来る、何者かの気配。

 ──に、身構えた瞬間。

 

 猪。

 

「──は?」

 虚を突かれ、それでもすんでのところで突撃をかわした楓軌の鼻先を、びゅおんと一條の光陰が行過ぎた。

 空を切り裂いた鋭い棘は、見事、先の獣の後足に突き刺さり、これの勢いを削ぎ落とす。

 グルグルと咽喉を唸らせ、炯炯と光る怒りの眼が、傍にいる楓軌を敵と見做して威嚇する。

 改めて見れば、猪の身体には他にも二本三本と、半ば折れた形のままに矢が突き立っていた。

 矢傷と思しき出血の形跡は、それら以外にももう数箇所認められるのだから、これを追い立てた者は、相当の腕前の(なおかつ割合に非力な)射手に違いあるまい。

 楓軌がそれと相対したのは、僅か数秒。その間に、それだけのことを見取った彼の目前、頭上高くより飛来した第二の矢影が、獣の頸部を大地へと縫い止めた!

「うおっ?!」

 矢の雨襲来を恐れ、楓軌は大きく背後へ跳び下がり──

 

 どかんっ

 

 衝撃で何かを弾き飛ばしたと気付いた。

「わぎゃっ」

 そこに上がるのは、打たれた犬が上げるような、悲鳴。

 大凡色気の欠片もないその声が、うら若き乙女のものであると知ったのは、振り向いて、鼻を押さえる相手を目にして後のこと。

 

 盛大に尻餅を搗いた娘は、涙目になって彼を睨んでいた。

「後方不注意なんて、有り得なくない?」

「う、悪い……」

 文句を言われて、楓軌は頬を掻く。

 なのに彼女は、既に彼を見るのを止めて、傍らに転がっていた異国風の弓を拾い上げたかと思うと、実に身軽に楓軌の横をすり抜けていった。

「あ、おい!」

 手負いの獣に不用意に近付くな、と、そう言いたかったのに、楓軌には言うことができなかった。

 腰に指した小刀を閃かせ、彼女は悠々と猪の脇に片膝をついていたので。

 

「あーー!」

 

 やっとそれに気付いて、楓軌は大声を上げた。

「てめぇ! 元はといやあお前がっ!」

「うるさ」

 娘は煩わしげに身体を傾がせて、この怒号をやり過ごす。

 華奢な見かけによらず、随分と豪胆なようだ。楓軌の怒鳴る前で、彼女はてきぱきと獲物を捌きにかかる。

 それに楓軌が興味を惹かれたのも、仕方のないことだろう。

 こんな山奥に、女一人で、随分とまた手馴れた風情だ。

 しゃがみこんでしまえば猪の陰に隠れてしまいそうなほど小柄な娘が、一体これまでどんな暮らし方をしてきたものか。

「哥哥ってここいらの人?」

 彼女は臓腑を綺麗に抜き取ったのを大きな葉に包みながら訊ねてくる。しゃべりながらも動かし続ける手つきは正確で、躊躇がない。

「お? おう」

「悪いんだけどさ、近くの村まで案内してくれない? さっすがに多すぎるしできればちょっと換金したいなーって」

「お、そりゃ、別に、かまわねぇ、けど、よ……」

 ざっくざっくと容赦なく小刀を入れる娘に、楓軌はわずかに身を引いた。

  このあたりは比較的長閑な生活を保ってはいるが、それ故に食料や金品を狙った賊が紛れ込むこともある。たかが娘一人といえども、賊徒の手引き役でもあった ら村の一大事だ。そもそも、この時勢に女が一人で旅をするなど、無理がある、楓軌にでさえ信じがたい話なのだ。最初の勢いに飲まれてつい見逃してしまって いたが、思い直せばこの娘は、かなり怪しい。

「けど、何?」

 血塗れの刃を構えたまま、娘はくるりと振り返った。

 小首を傾げる愛らしい仕草も、その顔にまで散った朱の色がより凄惨な雰囲気を醸し出すのに一役を買っている。

「手前ぇ、何者だ?」

 じり、と楓軌は後退った。情けないが、わけのわからない相手なのだからしようがない。

 すると娘は、何故か笑みを凍りつかせて楓軌を見返した。

 怪しい。

 実に怪しいことこの上ない反応だ。

「手前ぇ……」

 楓軌は腰を落として背中の得物に手をかける。

 娘は未だ、硬直したきりで彼を見つめている。

 さてはやはり悪党共の手先かと身構えたところに──

 

「この格好! 超ヤバくない? むっちゃ血塗れのスプラッタ劇場?! こんなんじゃ村の人超びびるよね、やだどうしよ!」

 突如甲高い声で叫んだ彼女は、真っ赤に染まった両手で己の衣服をつまみ上げた。

 

「わ、チョベリバ、悪化させてどうするっての」

 小刀さえ放り出してあたりの木の葉を毟り出す動きは、寸前までとは打って変わって無駄が多く騒がしい。そうこうする内に、楓軌の放つ殺気に気づいていないのか、無防備にも背中を見せる始末だ。

「おい」

 問いかけを無視された形の楓軌は、素早く得物を抜き放つと、振り下ろし、娘の首筋より薄皮一枚分の寸止めにして刃をあてがった。

「えーと」

 ようやっと騒がしい動作を止め、娘はそろそろと鋒の切っ先を顧みる。その頬からは鮮烈な朱の滴は拭い去られているものの、乱暴に擦られたか、却って全面にその色が引き伸ばされたようで、不気味さにおいては苦労した甲斐なしという有様だった。

「あたしが何者か、だっけ?」

 にへらという笑みを取り戻した娘は、今のこの体勢には言及することなくただ聞き返し、そして楓軌の反応を待たずに続けた。

 

「私 は通りすがりの旅人さんで、こないだどこかの理術師さんの実験に巻き込まれてこんな山の中に飛ばされちゃってきた不幸な子です。手持ちの食料がなくなりそ うだったんで調達しようとしたんだけど、なかなかちょうど良いサイズのが見つからなくて大きいのに挑んで見ました☆ ほら、大は小を兼ねるっていうで しょ?」

 えへっと娘は頬を掻いた。

 

「あー、それで、姓は紅、名前は朱宝。いろんなとこを転々としてるので出身地はどこっても言えないかなぁ」

「お前……」

「だっから紅朱宝だってば」

 刃物を突きつけられても、この娘は緊張感をまるで見せない。

 悪びれるということを知らないように暢気な訂正まで入れてくる相手に、楓軌は自分のしていることがだんだんと馬鹿らしくなってきた。

 

「ねえ哥哥、とりあえず傷む前に残りの肉切り出して、後ついでにできれば毛皮も持ってきたいなー」

「お前本当に一人か?」

「一人、なんじゃない? この山入ってから見っけた人って哥哥が初めてだし」

「村に行ってどうする気だ?」

「余分な肉と毛皮を売ってー、ご飯食べてー、あーその前にお風呂入れるかなー? 洗濯して着替えしてー、たまには布団で眠りたいしぃ……」

 朱宝は言いながら指折り数えだす。次々と挙げられる些細な要望といえば、最後まで聞いていたらそれこそ日が暮れて、何の処理もされていない肉が痛み出しそうな程だった。

「あー! わかったわかった! わかったからそん位にしとけ」

 楓軌は頭を振って彼女の言葉を遮った。

 

 疾うに得物は朱宝の急所からは外れてしまっている。さらにそれを背に戻し、楓軌はがっくりと肩を落とした。

「こんな所でいちいち聞いていたら夜になっちまう。手伝ってやるから早く片付けちまいな」

「やた、ラキッ」

 朱宝はぴょんと飛び跳ねて半回転、楓軌に向き直ると満面の笑みを見せた。出会って早々から良く笑う娘ではあったが、ここまでの破顔は初めてだ。こうして見ると、彼女の印象は大分幼い。

 放り出していた小刀をいそいそ拾い上げ、ついた血と砂利を幅広の葉で拭い去る。綺麗になった刃で改めて猪肉に挑みかかる姿は、一端の旅人ではあるのだが。

 

「お前ぇ、歳は幾つだ」

 手伝うと言った手前、ぼんやり見ているわけにも行かず、彼女の隣に巨躯を屈めながら楓軌は訊ねた。

「んー? えーと、うー……哥哥、女の子にそんなコト訊く?」

「何でぇまだちんまい娘っ子がそんな事気にすんのか?」

「うぇー、てゆーか、まだ哥哥の名前も聞いてないのに私ばっか喋るのもおかしくない?」

「お、悪ぃ悪ぃ。俺は楓軌。姓は楓、名が軌だ。歳は二十五な」

 初めて言いよどんだ朱宝が可笑しくてからかってみたが、彼女の切り返しも尤もに思え、楓軌はそう応じた。

「やっぱそうくるワケ……?」

 朱宝は心持肩を下げ、顔をうつむかせる。

 しかし楓軌が先に答えた以上、自分も明かさぬわけにはいかないと諦めたのだろう。上目遣いに彼を見返すこと暫し、何かぶつぶつと独り言を呟いた後に頬を染めてボソッと答えを返した。

 

「……れでも、十九よ」

 その答えはまた、楓軌を驚かすのに十分なものだった。

 

 

 

 

 

 

基 進


 朱宝と楓軌の出会い編です。
 なんだか円花とランスのやり取りと似ているような気がしつつ……
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