「あんれ、あんた地図職人かい?」

 

 

 楓軌に連れられて入った酒家で、朱宝は猪肉の売却と投宿の手配を済ませた。

最 初村に足を踏み入れた時には、「杜氏の二男坊が狼藉を働いたか?!」 とばかりに心配され、次いで、「不調法者の楓軌もついに嫁を?!」 と取り囲まれ、 最後には、「このちっちゃな娘っ子が大猪を?!」 と驚かれ、仕切りと大騒ぎになってしまったのだが、迫力のある楓軌の母や度胸の良い酒家の女将に追い払 われて、やっと人心地がついたところだ。

 宿の一室で沸かしてもらった湯を使い、朱宝が血汚 れを落としている間に、楓軌は女将に料理を頼み、こうして丁度よい頃合に卓を挟んで箸を取る。お前にしては上出来な采配だと背中を叩く楓軌の母は、おそら く未だ誤解をしている口なのだろう。身ぎれいになった朱宝を目にすると、

「あらあらあら、ずいぶんとまあ別嬪さんじゃないかね、ほほ、婆さんは一足先に帰ろうかね」

にんまりと弓のように口の端をあげてそそくさと去っていった。

 そんな夕餉の時間だ。

 

 

 卓上に羊皮紙を広げ、いささか行儀悪く炒麺を頬張っている朱宝に誰かが声をかけてきた。

 この声は小間物屋の楊小母さんだ。

 朱宝はごきゅんとあんかけ野菜を飲み下し、目を丸くして楊小母さんを振り返る。そうする間にも小母さんは彼女の 手元を覗えるまでに近寄ってくる。

 

「やっぱりそうだ、こりゃあ泥根だか税炎だかいう地図だろ? お前さん、あまりそうはみえないけど、出身は北の方かい?」

「知ってるんですか?!」

 さてはかしまし屋の小母さんがまた妙なことを言い出したなと身構えた楓軌だったが、朱宝が公定的な相槌を打ったのでおやと思った。

 楊小母さんは少し得意げに胸を張った。

 

「いえね、うちはしがない小間物屋なんだけどさ、うちの爺様の爺様が洟垂れだった頃、北の方から流れてきた地図職人に会ったんだとさ。

 ほれ、測量の道具やら何やら、子供の目にゃあ物珍しいじゃないか。こっそり一つくすねてやろうとしたら、連れの陰気な兄さんにぶっ叩かれてねぇ、したらば税…何とかいう職人さん」

「ゼイ、エン?」

「あ、そうそうそんな名前だったかね、その人が不憫に思ったのか、使い古しの作図具と、できたてのここいらの地図の写しを譲ってくれたんだと。

  まあ、書かれてる言葉も異国語だろ、すっかり珍しがっちまって、大事に大事にとってたんだよ。あたいらには紙っ切れがそんな大層なもんだとは思わなかった んだけどさ、それがどうだい、街の方じゃ同じような地図がかなり評判だっていうじゃないか。今じゃあうちの看板代わりさね」

「じゃあ小間物屋さんのお爺さんは本物のマルード、ゼイエンに会ったことがあるんですね! 本物のゼイエンマップ、見せてもらえませんか?!」

 朱宝は勢い込んで言った。がしゃんと跳ね上がった磁器の皿は、すでに空になっているので大した被害を生まない。ちゃっかりと食事は済ませていたようだ。

 食いつかんばかりの彼女の反応に気をよくした小母さんは、朱宝に店の場所を教え、いつでも尋ねておいでと軽く請け負う。

 

「さてと、うちのガキどもが暴れだす前にそろそろお暇するよ」

 小母さんはやれやれと腰を叩くと二人の卓を離れていった。

 

 

「なあ、おい」

 やりとりにすっかり置いて行かれてしまった楓軌は、残された朱宝に解説を求めようと声をかける。が。

「……ゼイエンマップ、か」

 朱宝が小母さんの出ていった酒家の勝手口をやけに険しい顔で見ていたので口を噤んだ。

 

 頬杖をついて、冷茶の杯を雑に持ち上げて煽る。すいと目を細めれば、獲物をかる狩人の表情。寸前までの陽気さなどかけらも残ってはおらず。

「おいお前」

 卓に降ろされた彼女の手首を、楓軌はぐいと掴んだ。

 朱宝の手からはじき出された杯が、木の卓上を転がり乾いた音をたてる。

 一度は薄れた警戒心が甦り、楓軌は彼女をきつく睨みつけている。

 周囲の耳目が再び己らに集中するのも、構ってはいられなかった。

 

 

「あは、ごめんごめん。ぼーっとしてたからってすねないでよぅ。心配しなくても、今晩はったっぷりつきあってあげるから

「なっ」

 途端、表情を崩して朱宝は楓軌をからかった。

 彼の面を見慣れている村の面々までが萎縮する形相に、堪える様子もない。

 一体何事かと固唾を飲んだ人々の視線が、生暖かなにやにや笑いへ擦り替えられる。

 

「ちっ」

 

 楓軌は乱暴に朱宝の手を振り払った。

 

 相当に質の悪い女。楓軌の中で彼女ははっきりそう定義される。

 今や酒家中の人間が彼女の味方だった。

 顔を背ける楓軌に対してあちらこちらで野次が飛ぶ。女将は何も言わないが、皺の寄った目元が、明らかに彼を揶揄して笑っていた。

 

 

「だーっうるせえっ散れっ!」

 楓軌は両腕をうならせてその場の空気を払った。その様はさながら癇癪をおこした子供であり、ますますの笑いを誘った。堪え切れないという様に、終いには元凶である朱宝迄が噴き出す。

「くっふふふっごめんごめん」

 憮然となる楓軌に朱宝は涙目で謝った。

 笑いに引き攣れた表情で言われたところで説得力はないのだが。

 

「ねえ哥哥」

 朱宝は卓に伏した姿勢で、声を潜めて続ける。

「マジに今晩付き合う気、ない?」

「どういう意味だ?!」

「それは夜のお楽しみ♪」

「おいっ」

「ヒントは、小母様と同じくらいに出てっちゃった人達、かなあ」

「ああ?」

 声色からそういう意味合いがないことを察した楓軌だったが、付け加えられた言葉が彼を怪訝な顔つきにさせる。確かに、宿泊客らしき男達が数人、連れ立って出て行くのを見かけてはいる。しかしそれらの関係が楓軌には今一掴めない。

 

 朱宝は苦笑した。そしてそのまま

「じゃ、そういうことで。

 哥哥も今のうちに休んどいた方が良いよ。亥の刻ぐらいになったら部屋に来てね」

言い捨てて、与えられた部屋へと去って行ってしまった。

 

 

 楓軌が再び大量の野次に見舞われたことは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

戻 基 進 

 

朱宝は万事がこの調子。実は庸明殊以前の被害者は楓軌哥さんだったり。

 

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