決行は発覚から半月後。仕事は敢えて片付けきらぬまま、適当な区切りをつけて執務室を後にした。

 時を同じくして姿を消した妹達のおかげで、彼女に向けられる監視の目は殊に厳しい。だからこそ彼女は、平静を装い、残された雑務を処理しつつ、新しい将がこの部屋に配属されるための準備を淡々とこなしていたのだが。

 決意を促したのは、ある男の帰還。

 彼が戻ってしまえば、ますます、彼女がこの地を離れる機会は遠退いてしまうだろう。

 だからこその決断。

 桜華はもともと少ない私物のうち、持ち去っても目立たないものと、持たぬわけには行かないぎりぎりの物を手早くまとめ、陽片王の居住区へと足を向けた。

 形ばかり用があるのは、彼の側近。精霊族の血を濃く引くと噂される篇嬰を訪れるのは、行方知れずの主について、安否を伺う為と銘を打ってのこと。

 実際に篇嬰にそのような力があるかは、知れない。

 けれど、歳の近い彼女を慰めるのは、いらぬ反抗の芽を摘み取るのに有効だと嘯いて、崇萄自らが認めたことだ。例えそれが、ぽろりと玉蘭の行方を漏らすことを期待しての、裏側に監視をつけた上での許諾だったとしても。

 桜華はいつも通り、極々当たり障りのない会話をして後、帰宅すると見せかけて人並みでごった返す城下の市場へ紛れ込んだ。

 当たりをつけていた空家。

 変える必要があるのは、髪形と、ちょっとした服装の装飾品。旅の女であれば大抵被る笠は敢えて持たず、いざという時の言い訳が立つように心配り。

 勿論、露見せずに抜け出せるに越したことはないのだが。

 

 桜華はこちらを伺う気配がないことを確認してから、再び雑踏に紛れ、そして街外れに出る。ここからが問題。

 巡回兵の目に止まらぬよう、尖らせる神経を悟られぬよう、角を曲がり、木立に隠れつつ──

「誰だ!」

 突然上がった鋭い声に、桜華はぎくりと足を止めた。

 偶然? それとも、見つかったか。

 警戒はしつつもそこから動くことはせずに、兵士の動きを探る。

 大丈夫。少なくとも、見知った兵では、ないようだ。

 けれど、彼のつま先はしっかり彼女を目指して歩を進める。

 ごまかすべきか、眠ってもらう方が、良いだろうか。

 心持物騒な思考へ傾きかけた桜華だったが、どちらにとってか幸いなことに、それを実行に移すことはせずに済んだ。

 シャラ……

 左手から聞こえてきたかすかな音。

 それに続けて現れたのは。

「いややわあ。見つかってしもうたん? 後生やからそないな物騒なものは近づけんといておくれやせんか」

「は?」

 ぽかんと口を開いた兵士を笑うことはできない。

 なぜなら桜華もまた、唖然とするあまりに一瞬、頭の中が真っ白になってしまったからだ。

「あの、もし?」

 おっとりとした笑みを浮かべ、首を傾げる。その女が身じろぐたびに、御髪にさした幾つかの簪がしゃらりと音を立てる。兵士へと呼び掛けるように半ば挙げられた片腕の、ひらひらした袖口にまとわりつくのは、鈴、なのだろうか。頭とも異なる音色がしゃんしゃんと。

 それだけでも目を引くというのに、異国情緒溢れる衣裳に包まれた女の顔には、遠目にもわかるほどきらきらとした装飾が為され、褐色の肌に星の川が煌めいている印象を与える。

 一歩間違えれば、場末の娼婦か芸妓になり損ねた三文芸人かという陳腐さになるところを、立ち居振る舞いと、どこのものとも知れぬ異国訛りの柔らかな声色が、絢爛豪華な空気に塗り替えている。

 まったく、いろいろな意味で、不思議な女。

 兵士も桜華と同じ結論に達したためだろう。訝りながら、得物の切っ先はやや下に落とし気味で、そろそろ女との距離を詰めていく。

「何だ、お前は」

 ようやっと、兵士はまともな言葉を女に向けて発した。

 女は微笑み、きらきら光る銀飾りを揺らしながら、

「うちはしがない旅の踊り子どす。お客さんらからはユメノウキハシなんて呼ばれることもありんすけれど、ほんまはただのウキハシいいますのです」

余裕たっぷりの受け答え。

 耳に入った女の呼び名に、兵士の驚きの、質が変わる。

ユメノ、ウキハシ?」

 桜華にも聞き覚えのある、呼び名だった。

  どのくらい前だったろうか。多分常柳か誰かだったかが、興味本位に語っていた噂話。かの詫瞭の愛妾・常蛾の落ちのびた姿とも、乱世故に帰る術をなくした北 方大陸の旅人とも言われ、異国の舞で市井の人々を慰める踊り子。噂の真偽を質さんと崇萄が幾度も彼女を召し上げようとしたが、どういうわけか、いつも使者 がたどり着く数日前に居場所を変えてしまうので、依然真実は闇の中だった。

 けれど少なくとも。

 この女性が常蛾とは別人だということぐらい、桜華にも瞭然だった。

  常蛾はいわゆる妖婦であったが、その色香で人を惑わす術には長けていても、戦場において生き延びる技量まで持っていたわけではない。常蛾は火に巻かれて、 その最大の武器である美貌を失ったか、裏切りを恐れた詫瞭によって斬り捨てられたか、とにかく無事な状態ではあるまいと、主や妹達、それに燕将軍らとも話 し合っていた。しかるに、今目の前でウキハシを名乗る女性のような、奇抜な化粧に肌が耐えられる状態とは思えない。

 また、例え常蛾が無事窮地を脱していたのだとしても。

  このウキハシの身のこなしは、ただものではない。この女性であれば、乱世を単身渡り歩いて、為そうと思うことを成し遂げられそうな──即ち、桜華の主にも 共通した、確固たる何かを持った人物だと直感した。そんな彼女が、政を徒に混乱に陥れた、あの常蛾と同一人物であるなどとは、とても考えられない。

 けれどまた、これほどの女性であれば、崇萄が目をつけ、手を伸ばすのも、道理というものだ。案外彼は、常蛾と別人と悟りつつ、ウキハシに興味を抱いたのかもしれない。

「だ、だがお前、なぜそんなところ」

「いややわあ。野暮なことは言いっこなしにしておくれやす」

「ぐ」

 我に返った兵士が詰問するのを、しゃなりと伸ばした手が遮って、ウキハシは裏の読めない笑みを浮かべる。形ばかりの恥じらうそぶりに、兵士はあっけなくひっかかって、好色そうなまなざしを、女の派手な襟元へとさまよわせる。とたん、ウキハシは不機嫌な顔をつくる。

「なあんて、最近うちのお付きの子ぉにえらい絡みはるお人がありますのや。今日こそ捕まえてきつーくお灸据えたりまひょ思うて、待ち構えておったんやけどなあ、兵隊はんいらはるところにはまさかきいへんやろ、そろそろ引き上げ時ですやろか……」

 しゃらん、と飾りを鳴らして、首を傾げる。思案がおのウキハシは、顎に軽く手を添えて、ついと桜華の潜む影に視線を向けた。

 ぎく

 桜華は身を固くする。

 目が合って、しかもウキハシは笑みを浮かべたのだ。

 完全に、気づかれている。先ほどからずっと、彼女がここに身を隠していることに。

「うちの子ぉも今日は無事みたいやし、ほな、うちはこれで」

 にっこり笑ったウキハシは、おっとりしていても切れ目の掴めない独特の喋り口に目を白黒させている兵士に会釈してまっすぐ、桜華の方へ近づいてくる。

 逃げるべきか、否か。桜華が迷ったのは数瞬。けれど、それだけあれば、ウキハシはすでに彼女の前だ。

「何事もなくよろしゅうおしたな。ルーも待ちくたびれてはるし、ひとつ急ぎまひょか」

「え」

 漏れかけた声を、桜華は辛うじて押し殺すことに成功した。

 ウキハシはシャラシャラ鳴る手を桜華の肩に回し、そのまま共に歩き出した。兵士は未だ茫然と、ウキハシを目で追いかけている。隣を歩く桜華の容姿にまでは、まったく意識が回らないようだ。

さすが、ウキハシの異常性に気づかない鈍愚だけのことはあるか。

 ウキハシの意図が読めないことが気掛かりではあったが、桜華は腹を決めて導かれるまま、"ルー"の待つ街道へと足を進めた。

 

 

 

 

 

 

 

基 進 


 突然裁家三姉妹長女がメインな感じで。ルーって黄色い聖じゅ……がふっ 
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