「まいったな」
突然降りだした雨に、あずさは溜息を吐いた。
近場だと思って歩きで来たから、このまま濡れて帰るしかない。
辺りの建物は、全て、倒壊するか崩落するかしており、雨をしのげるような状況にはなかった。
せめてもの救いは、書類を全て提出した後の、帰りの出来事だったということだろうか。激しさはないのに、衣服の奥―――身体の芯までをも冷やす寂々とした雨は、ケースに入っていたとはいえ、取引上の大切な書類を、ことごとく駄目にしてしまったことだろう。
「しょうがない、か」
あずさはもう一度だけ肩を落として溜息を吐くと、気を取り直したように(それでも少し前屈みで)走り出した。
しかし。
「―――あれ?」
角を二つも曲がった辺りだろうか。あずさは自分の行った動作に違和を覚えて動きを止めた。
濡れた前髪が張り付いて、鬱陶しい。
だから、手で脇に退けた。
そのはずなのだが。
半ば無意識の動作とはいえ、この短時間にしては忙しなさ過ぎるほど、同じ動きを繰り返していた気がする。
そして今また、退けられたことなどなかったかのように、前髪は既に落ちかかってきている。
あずさは立ち止まったまま、ゆっくりと、慎重な手つきで髪を撫で付けた。
―――ぺたり。
それでも髪は、元の位置に戻ってしまった。
本当に雨に濡れている髪なら、こんなことがあり得るだろうか?
「幻惑の……」
疑問を抱けば違和はそれに留まらなくなる。
確信を強めたあずさは、それを確かめるために自らの力を発動させた。
彼の周囲に呼び出された球形のイマジネイトは、いつになく淡い色彩を放っている。誰かが使っている力の、その有効範囲に取り込まれているせいだ。
あずさは光球を操って、インクルーダーの所在を探し求めた。
質の高い幻影を生み出す能力は、それを行使する者の姿も覆い隠してしまう。けれど、彼の光球が幻影空間の影響でくすんでしまうように、あずさの能力は幻影の中にある綻び―――則ち、生身の生き物を探り出すこともできる。互いに、生命体に働きかける力同士だからだろうか。
程なく、光球の一つが、雨の中にある歪みを発見した。
崩れ落ちた、建物と建物の間。惨事が起こる前には駐車場でもあったのだろう、舗装されず剥き出しの地面の上に、幻惑と呼ばれる力を持つインクルーダーは座り込んでいた。
その後ろ姿は見知ったものなのに、何故か見慣れないものでもあって、あずさは声をかけそびれてしまう。
今の彼にとって、敵対するような相手ではない。
力が発動されているとはいえ、少なくとも、他に危険が迫っている気配もない。
けれど、話しかけてはいけないような独特の空気が、その背中にはまとわりついている。
「―――」
結局、彼女が先にあずさの光球に気付き、顔を上げた。
「―――ッ!!」
目が合った瞬間、精神を乱された、あずさの光球は霧散した。
痛いほど、荒涼とした想い。
息も吐けなくなるほどの、激しい喪失感が胸を押し潰す。
「あずさくん?」
戸惑うように呟いた、彼女の声はひどく掠れている。
生気がなく青ざめた顔の中で、目のまわりだけが赤く腫れ上がっている。
「―――美夜子、さん」
あずさはやっとの思いで彼女の名を囁いた。
泣き明かして、涙が涸れ果てて。それでも足りなくて、力を暴走させている―――だから、ここに降る雨は、心の底までも冷たく濡らすのだ。
声をかけられ感情の呪縛が少し弛んで、あずさはそれに気付いてしまった。
それ―――へたり込む彼女の肩越し、積み上げられた石の上に刺さった金属の棒と、まるで墓標のようにそこにかけられた、見覚えのあるサングラス。金属の棒はおかしな形にねじ曲がっていたが、元が車軸であったろうことは容易に見て取れた。
「美夜子、さん……」
言うべき言葉が、何も見つからない。
代わりに浮かぶのは、数ヶ月前に見た彼らの顔―――任せておけと、不適な笑みを浮かべた「彼」と、その後を追って市街へと向かった、真剣な表情の美夜子。
自分も「彼」の力になるのだと、常にインクルーダーの関わる争いから距離を起き続けてきたはずの彼女が、たった一人のために決戦の地へと向かったのだ。
そこはまた、嘗て彼女を追い立てた場所でもあったというのに。
それが―――
「あ、ずさ、くん……?」
他にどうすればいいのか解らなくて、あずさはただ、彼女を抱きしめた。
泣きたいのに、心は未だこんなにも泣いているのに、涙の涸れ果ててしまった美夜子は……息苦しすぎて、見ていられない。
もし自分が、彼女と同じ立場に立たされたら。自分のたった一人の大切な相手が、自分ではない、他の誰かを救うために命を懸けて―――大切な、大切な相手が!
幻惑の力が暴走しているせいだろうか。あずさは美夜子の感じる痛みを、我が事のように感じ取っていた。
寂しい
苦しい
会いたい―――イタイ
淋しい
あのヒト
逢いたい―――けど
もういない
会えない
それでも
だけど
愛、してる……!!
脈を打つごとに押し寄せてくる感情。その激しさに背中を押されるように、あずさは、美夜子の、唇を、塞いでいた。
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使用素材配布元:Cha Tee Tea/1キロバイトの素材屋さん