それからどれぐらいが過ぎたのだろう……? ぴしゃりと叩かれた頬の痛みで、私は我に返った。
「沖野ぉ……?」
酷く心配げな声が、瑞緒のものだと判別するのに、1.5秒かかる。
気が付くと、私の周囲には、沙霧某を別とするなら、全てのチームメンバーが集まっていた。
「大丈夫ですか、沖野さん?」
一同を代表して、梁前さんが訊いた。
全身が、硬直してしまったように動かない。強ばった舌で、私は懸命に何か言おうとしていた。
「さぎ……さぎ……ぃさん…………さぎ、ぃさん……が、あ…………」
「詐欺……鷺さん……?」
「おまえねぇ……」
瑞緒と笹本が漫才師になっているのが、微かに聞こえる。
何を言いたいのか、自分にも分からない。
二人を制して、高さんが、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。高さんは私が手放さないものの上にすっと片手を載せ、静かな口調で言った。
「教えてくれるか?……あいつが……沙霧が、どうなったのか……」
私は無言で首を振った。
私には、分からない。
「じゃあ、あいつは、何処に消えた?」
急に目の前が闇になった。
幾度も、幾度も。
真暗な視界の中で人間の足が転落していく……何か縋るものがほしくて、私は抱えていたものをぎゅうと強く抱き締めた。
「沖野っ!!」
叱咤するような声が、再度の自失を妨げた。高さんの脇から、多田が顔を覗かせていた。
「気ぃ失ってどうするの! 落ち着いて、少しずつでいいから話せばいい。暈けてたって、どうにもならないでしょう?」
酷く前向きな発言……まさか多田が、沙霧行方不明でそんなことを言うなんて思ってもみなかった私は、何だか唐突に、酷く可笑しなものだと嗤いだしてしまった。
「あははははははははは……」
「沖野っ!」
途端に飛ぶ叱責。
正気じゃない嗤いだと、気付いてないはずなかった、私だって……嗤うのを止めて、虚ろな声で答えた。
「……わかってる」
「沙霧は何処に……?」
「ホールの中……転落するの……見た」
「……そうか…………」
やはり、な……と高さんは呟いた。
皆、肩を落としていた。
どういうことなのか、私には分からなかった……分かりたく、なかった……!
「諦めるのは早いんじゃないかな?」
出し抜けに、楽天的にユハが言った。
驚いて顔を上げる一同。私も上目遣いに声の主を見た―――否、ユハじゃない。
「アキム……いえ、リーハっ!?」
今度こそ、私は自分を取り戻した。
ただの知人じゃ無しに、あちら側世界の住人……の上、次元転移理論を私に教えてくれた、当のリーハの言葉だ。
「久しぶりだね、【智依名】……それから、こちらは【青樹】の弟君……?」
リーハはやけにのほほんと言う。【青樹】が梁前さんのお兄さん……H2J最年少理事の梁前悟氏のことだとは、千波にいる間に知った。
「初めまして、【皓樹】と申します」
「噂通りだ……それで……【未杜】の兄君が…………」
私が高さんを示すと、リーハは沈んだ声で挨拶をした。
「申し訳、ないと思っている……だから今、こうして出向いてきたんだ。【智依名】ともう一人、エスジェリアンの気配が、突発的に膨れ上がって、消えてしまったから……」
「千波のあたりにまで、気の膨張が届いていたんですか?」
梁前さんがふと訊ねると、リーハは静かに首を振る。
「我々トラジェリアの民は、そういった感覚があなた方とは異なっているのですよ。【智依名】の気配を私は熟知している。それでなければ異変に気付くはずもありません」
じゃあ、このことを知る者は、他には、まだいないのか。
「成る程……ね。では、教えてもらえますか? 本来、仁津保内では千波にしか立ち入ることを許されていないはずの貴方が、こうして、塔北の、仙蓼にまで赴いてきたという理由を」
梁前さんの口調には、何処か棘があった。彼はこのトラジェリアンをあまりよく思っていないようだ。
リーハは
「手厳しいね、流石に【青樹】殿の弟御は」
と苦笑い、答えた。
「予想通り、アキムに怒鳴り込まれてね。エスジェリアに入ることさえ許されてない彼が来かねない剣幕だったから、慌ててやって来たんだ。二つのことを、伝えるために」
「二……つ?」
聞き返したのは私だった。リーハは頷いて言う。
「まず一つ目、このホールは、トラジェリアとは全く異なった次元に通じている。空間的には、エスジェリアに似通った性質を持っている世界だ。
それから、二つ目……いいかい……? ホールに消えたエスジェリアンは生きている。体力がある一方、精神的には不安定だったのが却ってよかったらしい。安定世界の強制排除には、今のところ引っかかっていないようだ」
強制排除。次元外の物体の多くは、その世界の理を乱す異質な物として、その存在力そのものを空間自身によって奪われてしまう。トラベラーは、それに引っかからない、特殊な存在。
でも、精神的に、不安定……? あ……
「そういえば……今朝、様子がヘンだった……」
「もうすぐ、美弥の命日だからな……」
ぽつり、高さんが呟く。
その時、三田君がはっとしたようにユハを見た。
「あ……」
「急がないと、大変なことになる……!」
「どうしました? お二人とも」
眉を顰める梁前さん。
「俺達、あの時の妖霊に出会したんです、ほら、あの事件の時の……」
「【ミモリ】がどこかに飛ばしたはずなのに、もう大方元通りだった。まだ、【狙撃手】を狙っている気配がある」
言われて思い出す……「サンプル」がどうこう言っていた、あの中級妖霊。
だけど、それじゃあ……?
「ナルド・イ・アーダに会ったのですね、あなた方は」
リーハは短く息を吐いた。
「位の高いトラディネラス共は、同胞同士を戦わせるのを娯楽にしている。丁度、ここの世界にある闘鶏や何かのようにね。
ところが……そういった賭に飽き始めた連中が、エスジェリアンの能力者に目を付けたんだ。
容姿はより、やつら……上位者に近く、敗者は僕の飼料どころか、奴ら自身の食料にもなる……その、悪趣味な遊びを確立しようとしている奴の配下に、採集屋……ナルド・イ・アーダと呼ばれる者がいる…………イルダナ・ルアド・タク……アキムの、義弟、だ」
「そんな! ……れじゃあ……!?」
信じられない。義理とはいえ、あのアキムの弟が…………
「そう……【未杜】、アオキミヤを殺したのも、ナルドだ……だから私は、アキムにそれが伝わらぬよう、【未杜】の死、そのものも隠してしまった……」
彼にはあまりにもつらすぎる話だったろう……漠然と、彼女の死は悟っていたようだったけれど。
よりにもよってそれを為したのが……
たとえその事実を知ったからといって、彼女の命が戻ることはない。ならいっそ、知らないままでいた方がいいと考えたリーハの気持は、よく分かる気がした。
「だけど、美弥さんを死に追いやった事実は……!!」
思いがけず強い口調で言ったのは三田君だった。
「それ以前にも、数多くの能力者を食い物にしてきた。「採集屋」とまで呼ばれているのですからそういうことなのでしょう、違いますか?」
「確かに……ナルドの手に掛かったエスジェリアンは少なくない。しかし、【未杜】の死が知れてしまって、彼は自然と、それがナルドのせいだと悟ったようで……また酷く、私は怒られたよ。何故もっと早く教えてくれなかったのか、とね」
「それじゃあ、まさかアキムは……」
「ナルドに対する決断をつけた。彼は自分自身の手で、ナルドを……イルダナを、捕らえると。次元の狭間で奴を追いかけているアキムより先に、君達エスジェリアンがナルドに遭遇したようだけどね」
「だけど、その妖霊は突然姿をくらましたんだ。だから僕たちは、オキノ達に加勢するつもりでこっちに来た……」
なのに沙霧さんは見当たらず、ホールの周辺には妖霊も殆ど存在せず、大きな暗闇の真ん前で、私がぼーっと座り込んでいた。
「アキムの気配を察して、逃げた、か……」
高さんは腕組みをしながら言った。心なしか青ざめた彼の顔色を気遣うように見て、高科さんは溜息を吐く。
「しかし、【狙撃手】が落ちたことに気付いているのは確実でしょうね。執念深い相手なら、そのまま後を追いかけかねない」
「追いかけるでしょうね、要君を、覚えていた以上は。それよりも……」
「問題は、沙霧自身か……」
高さんと梁前さんが、同時に額を抑える。
駄目押しは、多田の台詞だった。
「恨みあるヤツを見つけたら、引くのをしんないだろうね、あの男は」
「冷静そうに見えて、案外抜けてんからなー、沙霧さんってば」
浅沼少年にさえ言われてしまった日には……だけど、もし仮に、あの中級妖霊が沙霧さんを見つけてしまったら……!(作者注・沖野は中級と思いこんでいるが、実際は二つ上の下位妖霊です)
考えてみるまでもないことだった。
万全の状態でも一人で相手するには厄介な妖霊。次元を飛ばされた生身の人間が普通どうなるのか、私は実際、見たことがある。
ちらりと笹本に視線を走らすと、那美子さんは春霞の空のように青白くなっている―――笹本も思いだしたのかも知れない。一瞬で気絶してしまったとはいえ、いや、一瞬で気絶してしまうほどの、恐怖。
笹本の時は見境なく飛び出してしまったけれど、次元移動について学んでしまった後では、却って躊躇して動けなくなってしまったのだ、この私が。
「そいつより先に、沙霧さんを見つけることはできませんか?」
三田君が訊ねると、リーハは頷きを返す。
「不可能なことじゃあないですよ。じゃなければ、初めから、私が来る必要もないでしょう?」
「それじゃあ、どうすればっ!?」
私達みんなの期待のこもった目を代表して、瑞緒が意気込む。それをどうどう、と宥め、梁前さんは二、三歩引いた姿勢で口を開く。
「お聞かせ願いませんか? その素晴らしい方法とやらを」
気に入らないどころか!!
彼が決してリーハを信用していないのは明白だった。
「梁前!」
きつくたしなめる高さんを身振りで押しとどめ、苦笑混じりにリーハは答えた。
「構わないですよ。彼の落ちたおよその場所は見当がついています。どのような世界に落ちたのかも、もう調査済みです、乗り込むのに不足ないぐらいにはね」
「ただ……?」
高科さんが口を挟んだ。珍しいことに、今日は高さんではなく、梁前さん側に付いているようだ。
「先読みしないで下さい……そうですね。ただ、問題が幾つかあって……」
「具体的には、二つか三つというところでしょう?」
「……だから、先読みしないで下さいって……え〜と、一つには、あちら側の世界では、我々は人型を保っていられないんです。以前ためしに行った者は、九尾の狐の姿になってしまって。
それからもう一つ。私もアキムも、彼と接触したことがありません。運良く見つけられたとしても、うまく連れて帰れるかどうか……」
「……つまりこういうことですね? 自分達では不可能に近いことだから、こちら側の次元移動能力者である【智依名】も一緒に行って、ナルドとかいう下位妖霊への危険を感じながら、どうにか【狙撃手】を探し出して連れ戻すしかないのだと」
高科さんの台詞は厳しかった。そしてその厳しさは、ただ、これ以上の犠牲を避けようとする故に生まれるのだと分かった。
「その通り……としか言えません。ただ、少なくともナルドに対する危険は、アキムがいる限りは心配ない。姿がちがくなるのは向こうも一緒ですから」
安心させるように、リーハは微笑む。
「あなたの話を、鵜呑みにするわけにはいきませんね」
冷然と言い放ったのは梁前さんの方だった。
「シノブ……!!」
信じがたいという表情で、ユハが彼を見た。
かなり、咎める要素の含まれた口調。梁前さんはそれを受け流し、高科さんと目配せしあうと、静かな口調で言った。
「要 君がホールに落ちて、助からないだろうと誰もが思った……そこに現れて、彼は別の次元にいて、まだ生きているという。絶望を感じているところに、甘い言葉 を少し投げかけてやれば、人を欺くのは簡単です。我々は……決して認めたくない現実よりも、あり得そうもない、突飛な希望を選んでしまう生き物ですから ね」
「確かに、言われりゃあそうだよなぁ……」
「浅沼!?」
三田君は驚愕の表情で、腕組みをする浅沼君を見つめる。浅沼君は、妙に大人びた顔をして、うんうん、頷いている。
「あまりにも出来過ぎているというのも確かだわ」
続けたのはクールな多田だった。挑戦的な瞳は、まっすぐトラジェリア人を見つめている。リーハはその視線を正面から受け止め、暫時無言の睨み合いが続いた。
その後。
「……そうですね…………」
そう言って、先に表情を崩したのはリーハの方だった。
拍子抜けするくらい、あっさりと彼は引き下がった。
「今の、トラジェリアとエスジェリアの関係だけを見るなら、【皓樹】達の言い分の方が通っている……」
「あなた方がその一般型を外れていると、どうやって証明するのです? 少なくとも一度、【緋巫香】達は助けられた。けれど、それがあなた方トラジェリア人の些細な気紛れにしか過ぎないとしたら……」
梁前さんの台詞に、三田君は外れてしまいそうなほどに目を開いた。そして、耳を塞ぐ。
「止めて下さい!! どうしてそんなに穿った見方しかできないんですか!!」
叫ぶ声には、かなりの悲痛さがある。
「……“世の中とはえてしてそんなものなのですよ”……などとは、あまり言いたくありませんがね」
「我々だけでは済まされない問題でもあるんですよ、これは」
梁前さんも、高科さんも、対称的に静かな口調だった。途端、ユハは非難の眼差しを彼らに向ける。そうしながらも、すぐ隣に立つ笹本の肩を、安心させるようにぎゅっと抱き寄せるのが分かった。けれど……
「……わかってる…………」
呻るように低い声が呟いた瞬間、誰もが驚かずにはいられなかった。
高さんの―――俯いたままの、高さんの一言には。
「んなこと……俺だって分かってる」
その場は再び結晶化したみたいだった。
皆の視線は、顔を上げようとしない高さんの黒い髪に集中していて。
そして、がくん、とそれは下がった。
「――――!?」
目を瞠る私達の前で、崩れ落ちた高さんは地面に強く拳を打ちつけた。その盛大な音とは裏腹に、高さんの全身からは、弱さばかりが感じられた。
「高さん……」
気遣い、肩にかけようとした高科さんの手を振り払って、高さんは…………泣いていた、んだと思う。
声がしたわけではないけれど、多分……
「とりあえず……」
暫くその光景を見ていた梁前さんは、溜息混じりに告げた。
「本部に報告しなければなりませんね……それから、リーハ・シーマ・ダナスさん、お引き取り、願えますか……? あなたがいると、話がややこしくなる……」
「彼のことは諦めると……?」
「転落したのは【狙撃手】自身のミスです」
「…………わかった……」
短く告げると、リーハはくるりと背を向けた。
刹那。
私は何も考えずに叫んでいた。
「待って!!」
リーハが、首を巡らす。高さんも、顔を上げる。高科さんは目をすがめ、梁前さんは眉を顰める。
先程まで彼らに注がれていた意識が、全て私に向けられる。
私は迷うことを恐れるように、挑戦的な表情を固め、言った。
「どうするか決めるのは、私でしょ?」
そして、口にした瞬間には、決心も固まっていた。
―――それが、未だに積もる恨みを晴らしてなかったためなのか、目の前でみすみす助ける機会を逃してしまったからなのか、それとも……今朝見せた、あの男の、自嘲に満ちた表情が気になったからなのか、その時の私には、よく解らなかった。
ただ……あんな頼りない高さんを放っておくなんてこと、できそうにもなかったということも、一つの事実だった。
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