アーケードを抜けると、いつの間にか雪は止んでいた。
私は悪辣な路面に喧嘩をふっかける勢いで、自転車を走らせる。
頼むから滑ってこけるなよ〜!
沙霧しかいないってことは……いつかの二の舞三の舞になるってことも考えられるわけで。緊急の状態だって以上、高さんからの預かりものなんて期待できなくて……
沙霧一人では、結界の維持さえ、できない。そもそもあの人は、結界、作れない。
闇雲に最短距離を進んでいくと、案の定、早くも低級妖霊のお出まし。
「おん!」
出会い頭、スピードを殺さないまま足を突き出して、強引に蹴散らす。こんな連中にかかずらってる暇など有りはしない。ひたすら、先に進むことだけを考えている。
胸騒ぎがする。
「おんあぼきゃびじゃやうんはった!」
やって来た団体さんを乱暴に追い払うと、前方に、臨時封鎖区域の標識が見えてくる。
自転車を停めて、ビルの壁に立て掛けた。鍵の代わり、簡易結界符を貼る。
もう隠す必要のなくなった短刀を抜き放ち、閉ざされた区域の中へと足を踏み入れた。
生ぬるい風は、進行方向から漂ってくる。腐った水に、硫黄と酸が混ざったような悪臭。周囲の街灯が錆だらけなのも、老朽化のためばかりではないだろう。
黒い影がビルの窓から躍り出た。
咄嗟に受け流すと、耳を掻き回す金属音。相手のリストバンドと、短刀がこすれ合った音だった。
しかし、なんという力だろう!
身長は、【水霊】と変わらない程度。なのに、短刀を握った右手全体に痺れが走り、肩が外れそうな衝撃と鈍痛が、瞬間的に私を襲った。
よろめかないので精一杯!
「……ほう…………?」
それは理性を持つ声で、感心したように呟いた。
スタールビーの目が、面白がってこちらを見ている。
唇は紫。配色を除くのなら、人間と寸分違わぬ外見は、それだけで下級、低級妖霊などではないことを問答無用に悟らせる。
加えては今の馬鹿力。全く本気など出していなかったということは明らかなようで、それだけでもこちらにこれだけの打撃を与え得るなんて、そこら辺の低級な奴らにはできない真似というものだ。
そうでなくては困る。
それにしても……一日に二度もこういった手合いと渡り合うのは嬉しくないな。おまけに、店の中で戦ってきたのも、中級ぐらいには数えられそうだが、そいつが中級に成り立て……中の下の下だとすると、今目の前に立つ奴は、中の上あたりにはなりそうだ。
冗談じゃない。こんなの、身体がいくつあっても足りないじゃないか。
「私の姿を見ても怯えない……そのうえ、今の一撃を受け流して、意識を保っていられるとは……」
そいつは独り言を言って、じりっじりっとにじり寄ってくる。当然、その分私は後退する。
怯えてないわけじゃない。気を失ったってろくなことにならないって知ってるだけで。
そいつは素手だったけど、それがこちらに有益なことだとは限らない。奴らにとっては、全身全てが武器なのだから。
「丁度よいサンプルだ。‡†Ξξф様への届け物、損なわぬよう、もらいうけよう」
そいつの言ったことはよく聞き取れなかった。その意味について考える間もなく、そいつは一跳びで姿をくらました。直後───
「!?」
カシャンと短刀がこぼれ落ちる。
背後から掴みかかられ、手首を思いきり拈り上げられたのだ。
「は、なっ……せっっ」
「また、活きのいい……こうでなくては、な」
どうにかそこから逃れようともがくと、そいつは意に介した風もなく言った。
手は拈られたまま。何か、青銅色の糸の束が伸びてきて、腕ばかりではなく足や、身体全部の自由を奪っていく。喉にまでしっかりとそれは食い込んだ。
意志のある糸……奴等らしい武器だが、感心してる余裕なんてない。どうやったら、この状況を打開できるか?
満足に息も吸えないほど締め付けられ、情けない呻き声が漏れる。両腕両脚は一ミリだって動かせないほど束縛され、どうしようもない。
「お……ん……あ、ら…………ごほっげほっっ」
試みに、比較的身近な真言を絞り出そうとすると、喉の束縛が一層厳しくなった。
「成る程。言葉にまで力を与えられるのか。道理で……
しかし、こちらの方が面白い。暫く、黙っていていただきましょうか」
そいつの言葉と同時に、新たに伸びた糸の束は、猿ぐつわのように私の口を塞いだ。
絶体絶命の四文字が、頭の中で激しく点滅する。
ゴォォォォゥ……
その時、突然の風が周囲を襲った。
風は、鎌鼬の要領でもっていましめを切り裂き、私の身体はコンクリートの地面に投げ出された……と、思ったら、驚いた声が私を呼んだ。
「【智依名】!?」
げほげほ咳き込みながら顔を上げると、三田少年とウィン人レーサーとが、並んで、さほど離れていないところに立っていた。
「シ、【水霊】、【風牙】……」
「……ほう? 貴様等……」
するとそいつは、今までとは異なった、更に剥き出しの鋭利性の感じられる視線を二人に向けた。
「困った因縁もあったものだな……餌の分際で、また邪魔をする気とは……」
「お前はっ!?」
「You(貴様っ)!!」
二人は同時に反応を示した。【水霊】までもが、日頃の彼らしからぬ殺気立った瞳で、その中級妖霊を睨み付ける。
「僅かの間に、随分成長したものだな、小僧共。だが、まだまだだ……サンプルは、三体もいらない。ところで……」
【水霊】達の間に、さっと緊張が走るのがわかった。妖霊はわざと少し間を取り、二人の顔を見比べてから続ける。
「貴様等がここにいる以上、あのサンプルも、近くにいるんだろう?」
「Never……I never have an answer!」
【風牙】は即座に喉の奥から絞り出すような声を返した。
そして、突風。
妖霊はそれを片手で薙ぎ払った。風は上手いこと短刀を私の前に転がしてくれて。
「無駄なことを。二度も同じ手が通じるものか」
妖霊は言い、片手を大きく頭上に掲げた。
その指先に、光が凝縮される。
「【智依名】、now,come on, run!!」
【風牙】が叫んだとき、超局地的な暴風雨が彼らの方から吹き荒れた。
妖霊の放った力とぶつかり、鬩ぎ合い、激しい閃光があたりを白く染めた。
私は目の前の短刀を掴むと、何も考えず駆け出していた。
酷い空気抵抗の中、十数秒で【水霊】の脇に辿り着く。
雨が、止む。
「【智依名】、できるだけ早く指定ポイントに向かって下さい! 此処は、僕らでなんとかしますっ」
「だ、だけどこいつは……」
二人だけでどうにかできる代物ではない、と言おうとして、【水霊】に遮られる。
「時間ぐらい稼げます! でも、ホールが完成してしまっては……」
仕方なく首を縦に振った。この会話が長引けば、それだけこちらの不利に働く。それよりも、さっさとホールを塞いで、【狙撃手】を引っ張ってきた方が遙かに効率がいい……その時は、そういう、判断だった。
再び攻めに加わった【水霊】に背を向けて、私は小さな裏道に飛び込んだ。少し遠回りになるが、問題の場所に行くには、他にもう道がない。
手にした短刀を確認すると、刃の片側が、僅かだが欠けていた。
あの一撃のせいだろう。思い出すだけで、全身がぎしぎし痛む。
私は湧き出てくる雑魚共を適当にあしらって、先を急いだ。
先程の奴を考えると、ぞろぞろやってくるこの妖霊共は、あまりにも脆弱で、まともに渡り合う気にもなれない。
だが、どんどん先へ進むにつれ、私は奇妙なことに気が付かされた。
妖霊が減っていくのである。
前に着いているはずの誰かが片付けたのだとしても、湧き出てくる量さえが不自然だ。
「おん……?」
私は足を止めた。
すぐそこの角を曲がれば、もう目的地。争いの音は、聞こえない。空間の歪みは、確かに今もまだ存在している。角の向こうに。
自分の来た道の妖霊は、無理なく葬り去ってきた。なのに。
私の内側にある何かが、明確な警告を発していた。
“その先に、行くのではない”と……また、嫌な予感があって。
ごとっ
けれど結局、角向こうでした物音を聞いて、私はそういった第六感的制止の声を振り切り、その場所へと走り込んだ。
大きな穴が、開ききっている。
目に映ったのは、簡潔な事実だ。
そして、開ききった暗い穴に向かって「うわっ!?」と声を上げて吸い込まれていく、誰かの足……
「沙霧さんっ!?」
私はコードネームで呼ぶことも忘れて叫び、ホールの真近くに駆け寄った。
ぽぉん……と、丸いものが穴から飛び出てくる。反射で抱き留めて、はずみに二、三歩後退する。
氷のように冷たいそれは、見覚えのあるもの───沙霧某の、予備用のメットだった。
「沙霧さんっさぎりさんっ【狙撃手】! さぎり!!」
私はそのヘルメットを抱いたまま、狂ったように彼の名を叫んだ。
……そんな、まさか、あの男に限って……!!
いくら叫んでみても、異世界へ通じる穴の向こうから返答があるわけもなく、すっかり自失してしまった私は、その場に茫然と座り込んでしまうのみだった。
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