「沖野、沖野ぉ」
教室の、隅っこの席でぼんやり座っていると、多田がてってっと駆けるようにやってきた。
“あの事件”が起きてから、もう一週間が過ぎている。
直接的に“あの惨状”を見ていない多田は、精神的にはもう殆ど回復しているようだった。
昨日まで学校は閉鎖されていて、多田に会うのも久しぶりだ。
今日の学校葬を終えればまた、生徒全員自宅学習日に入る。
というより、実際のところこの学校の存続すらも危ぶまれている。
一斉に十人もの犠牲者を出した“あれ”は、表向き“不慮の事故”ということにはなっている。
しかし、職員室はあの惨状だ。
いくら手を加えても血生臭さは残るし、常識的に、あの部屋を再び使うことは不可能だろう。
しかも、校長、教頭を含む教職員九名が“あんな事”になってしまったのでは……
「どしたん? 沖野」
「え、ちょっと……」
顔を覗き込まれて、多田から少し視線を逸らす。
「あぁ、まだ、あのこと…………?」
それだけで私の考えていることを理解して、多田もまた、表情を曇らせる。
あとで聞いたことなんだけど、あの日私は、沈み込んで相当おかしくなっていたらしい。
……とはいっても、自分自身の中では、あの時も今も、心情的に変化はない。
ただ、ホームのトレーニングの時に、名前もコードネームも知らないような、他のハンター達と顔を合わす以外、誰にも会ってなくて……それでばれてないってだけで。
本当、ひどかった。
校長の生首が、助けを求めるような顔をして、血を滴らせながら追いかけてくる夢だとか、突然天井から血の雨が降り注ぐような夢、一人歩きする千切れた手足の大群が、血管や腱を振り回して押し寄せる幻覚……
寝ようとして浮かんでくるのは、そんなことばっかりだし。
ちゃんとした睡眠ってもの、あの日以来殆どとっていない。
「うん……けどさ、いつまでもこうしてちゃ、いけないんだろうなぁ…………」
辛うじて瞳をあげて言う。
こんなんじゃ、プロのハンター名乗る資格なんてない。
もっときわどい修羅場、いっぱいあるはずだから。
それは、分かってたから。
けれど。
「沖野、言ってる側から目が泣きそう。すっごく充血してる」
却って多田には、眉をひそめて「つらそう」と言われてしまった。
しょうがなくって、力のない笑みを浮かべる。
そういうことを隠すのは、正直下手だった。
「そんなこと言ったってぇ……」
「ほら、またそういって訴えかけるような目をする。そういうのは、もっと他の人にしなさい」
茶化すように言ったのは、多田流のやり方で励ましてくれてるみたいだったから、とりあえず「うん」と頷いて、
「他の人って、誰?」
どうにかとぼけてみせる。
せめてこのぐらいやっとかないと、廃人扱いされそうだなと、そんな気がした。
あぁっ、そこでなんで私ってばそんなことも思いついたりするのっ?
またそうやって……
こんな、極限状態みたいな落ち込みやってるはずのところで、こうやって二元放送みたいな、やたら冷静なような思考が働くのはなんなんだろう?
そういえば“あの時”もそうだった……
「誰って……例えば、沙霧さん、だとか」
私の内面の、複雑怪奇な葛藤を知ってか知らずか、多田は話の方向を、徐々に“例の件”から遠ざけようとする。
でも、その名前を聞いて私が思ったのは、やっぱりハンターとしての自覚とか、妙に冷静な沙霧さんの態度とかのことで。
――えっ?
そこでまた泥沼にはまりかけた私を、もう一人の私とも言うべき部分の驚きが引き留める。
――今、多田は、何て言った……?
「どうしたの? 沖野。さっきにましておかしくなって。発狂なんてしないでよ」
突然顔をまっすぐ多田に向けて、目も大きく見開いてしまうと、怪訝そうな顔で。
ひどい言い種である。
……って、そうじゃなくて。
「何て、言った?」
「何てって、ええと、『沙霧さん、とか』?」
「!?」
そこで暫く、思考回路がいつもの状態に回復する。
「なんで、知ってるの? その名前」
「え、なんでって……」
「私言ったっけ? その名前」
「いや、それは多分言ってない、と、思う、けど?」
「じゃあ、なんでっ」
勢いに押されて、とぎれがちに答える多田。
けど、本当に。
どうして、あの時顔を合わせたっきりのはずの、沙霧さんの名前を多田が知っているのか。
私が口にしたわけじゃないのなら、ますます何故なのかわからなくなる。
コードネームを知っているというならいざ知らず、多田が言ったのは紛れもない彼の本名の方なのだ。
「あぁ、やっともとの沖野だ、うん」
「そうじゃないだろ……」
ついげんなりとした声で言う。
こんなにいつものノリで動いてても、決して、完全に意識から“あれ”が消えてるわけじゃないのが、こわい。
「わかってるって。えぇ? 何でって言われたって、教えてくれたの、本人だよ?」
「えぇっ?」
「なぁにも、そんな驚かなくっても。
それでさぁ、一昨日支部の近くのローソンで偶然会ったんだけどさあ。
あ、本当はこの話しようと思ってたんだけど。
それで、少し話して、んで、丁度できたところだってこれ」
言いながら、多田は制服の胸ポケットから薄いカードを取り出した。
「渡されて」
多田の見せたのは、二ミリほどの厚さのある、シルバー加工のカードで、私にも勿論見覚えのあるもの――ハンターズホームの認識証だった。
「えぇっ!?」
今度こそ私は大声をあげた。
みんなさっさと帰ってるから、私達のほか人のいない教室に、ひどく声が響き渡る。
「なんでぇ?」
ボリュームを抑えて重ねて聞く。
偶然会った、話をした、は、いいとして。
本名教えるわ、その上には……
「なんでって、何かした?」
「オペレーターの人だよ、フツーそーゆーことするの」
「へ?」
そこで本気で聞き返す多田ってば、言われるまで、その状況に違和感すら覚えないんだもんなぁ。
それにしても驚きは沙霧さんで、私には、自分がパートナーに決まったって事も教えてくれなかったっていうのに。
自分は人事じゃないからって……
なのに。
私は恨めしい気持で沙霧さんの顔を思い浮かべた。
あのお方が一体何を考えて生きているのか、ますますもってわからなくなってくる。
「あのねぇ、常識的に考えて、支部の受付って何であると思う?」
「あ、あははは、そうか。そういえば、そうだねぇ」
「あはははって、多田ぁ……」
「あ、沖野呆れてる」
「あのね……」
何はどうあれ、私は浮上せざるをえなかったようだ。
必要に迫られれば、人間、どうにでもなる。
まず、この会話を契機に、私はほぼ一週間ぶりの笑い声をたてることとなった。
そして、この先一緒に活動していかなければならないパートナーのことを考えれば、確かに、いい加減立ち直らなければならない状態(どちらかといえば、立ち直らざるをえない極地)に、私は立たされていたのである。