「沖野ぉ!」
信号待ちをしていたところに、よく知った声がかかった。
最近縁があるのかもしれない。
それは、塾が違う瑞緒の声だった。
「どうしたの? こんなところで」
「えっ……えーとっ……」
「おいおい、悩むなよ」
すかさず言ったのは、こっちは同じ塾の、おんなじ講義取ってたりする宮部由貴。
そう、こいつがいたから、塾の帰りの寄り道とは言えなかったのだ。
なにしろ、今日は終わった後買い物行こうってのに、急用で先に帰ったことに、なってる。
それがこうして出くわしちまったんだから、つい、返答に困ってしまうのもしょうがない。
大体にして、本当の理由、言えるわけないんだし。
「用事、終わったの?」
その時、実にタイミング良く、二人の後ろの多田が言った。
咄嗟に、それに合わせて首を縦に振る。
「う、うん、一応は」
「え? 用事って?」
またもや宮部が尋ねる。
多田は一瞬上を見上げて、急いで適当なことでごまかしてくれた。
「あれ、何ていったっけ、あの奴。名前が出て来ない。いいや。モニターの募集じゃなかったっけ、ナントカってトコの」
「そ、そう、それ」
私は同意するようにこくこくと何度も頷いた。
「えぇ? 何の奴? 教えてよぉ」
今度は瑞緒が言う。
うっ……そう来るかっ。
しかしそこは間が空いたことがあったから、一人でどうにか出来る──つまり。
「へへっ教えてあげないよっ♪」
歌ってごまかす余裕が出来たということで。
「沖野ぉってばぁっ!」
「貴様は製菓会社の回し者かぁっ?」
「広告会社かもね」
そんな適当なことやっていたけど、不意に何か変な気がして、私は沙霧さんの方を振り返った。
こんな馬鹿やってるトコ、こっそりわざとらしいため息の一つも降ってきそうなのに。
仰ぎ見てみて、その訳は判った。
沙霧さんは全然私の行動なんて気にもしていなくて、その視線はひたすらまっすぐに多田を見つめていたのだ。
けれど、その目つきは……
「何かしたの? 沖野さん」
あんまり長いことそうしていたので、宮部は訝しげに尋ねた。
「え、べ、別にっあ、ほらCivic!」
訳のわかんない対応(しかしいっつもそんなことをやってるから納得されてしまうという……)をしておきながら、私は思わず多田の方を凝視してしまう。
多田の方は、全く気付かないそぶりで、瑞緒さんとじゃれ合って(?)いるばかりだ。
「……沖野?」
「え、どうかした?」
二人は同時に振り向いた。
振り向きつつ、偶然に瑞緒の視界に沙霧氏が入る。
「あれ?」
瑞緒は肩を叩いて多田の注意を促した。
「は? あ、ああ。どうも……」
自分が見られていたことにようやく気が付いて、多田は沙霧さんに頭を下げた。
瞬間、慌てて沙霧さんは目を反らし、そこら辺を見て、もう一度多田に視線を戻すという芸当をやらかしてくれた。
こらこら、何だ? 今のは。
皆の目が、沙霧さんに向けられる。
「え? 知り合い?」
こそこそとした声で、興味津々に聞いたのは宮部。
「あ、うん、まぁ……」
多田の声はあまり気が入っていなかった。
あくまで、例の、冷めたような口調。
信号が変わった。
私は瑞緒と並んで歩き始めた。
多田と偶然会えてどこか嬉しそうな沙霧氏が嫌で、ずんずん先に進んだ。
実は相手によってころころと態度を変える、という所が、どうにもこうにも許せなかったから。
「あれって、こないだのヒトだよねぇ?」
少し離れたあたりで、瑞緒はこそっと尋ねてきた。
「え? このあいだって……?」
私は驚いて聞き返す。
沙霧さんを瑞緒が見たのは、あの、例の、学校のごたごたの時だけのはずだった。
その時の記憶は、校内まとめて消していたはずなのに……
「あの、ほら。病院で……あれぇ? 違ったっけ…?」
「えぇ───っ!?」
今度こそ、私は目を見開いた。
一体どうして……?
それこそ、見ることなど出来なかったはず……
「夢だったのかなぁ、無声の。んー…でも、あの人それまで見たことなかったしぃ。沖野と二人で何かやってるトコだったんだけど、見たのは。どっちかっていったら、あの人が立場ウエだったの」
瑞緒は頬をぽりぽり掻きながら言った。
立場ウエってねぇ……
でも、それは多分。
私は沙霧さんを振り返った。
彼は全くその素振りに気付きもしない───今の話は聞いていなかったようだ。
「ごめんっ急用できたっ!」
それを見ると、私は多田の腕をひっつかんで、みんなのところから離れるように唐突に走り出した。
走って走って、沙霧氏の、未練がましい視線が断ち切れたあたりで初めて立ち止まる。
「痛いってば。何?」
多田は顔をしかめて身をよじる。そういえば、結構ぎゅっと掴んでいたかも。
で、なのにその手を放すのも忘れたまま私は、
「瑞緒変なのっっ!」
そう小声で叫んだ。
だって、さっきの話、明らかにおかしい。
……しかし、多田の答えはこうだった。
「いつもじゃん」
がく。
「そうじゃなくって! 何か、様子が……沙霧さんのこと知ってるの!」
「えぇっ!?」
そこになって、多田も驚いて叫んだ。
「何でぇ? ありえないよ、それは」
「でも、病院のことだって知ってる……変でしょ?」
私と多田は顔を見合わせる。
瑞緒って、一体……?
「どうした?」
二人で惚けていると、不意に背後で声がする。
見れば、いつのまにか沙霧さんがすぐ後ろに追いついていた。
おいおい、どうやって来たんだ? 全く。
「えぇ……と……」
言いかけた多田の言葉を遮って、私は早口でそれに答えた。
「何でもありません。さよなら」
そして、沙霧さんの前から今度こそ多田の姿をかっさらっていった。
K公園のあたりまで来て、私はやっと多田の手を放した。
「何なの。どーしたの? 沖野」
多田は訝しげに問いかける。
確かに、本来、あの男に隠す必然性はないはずで、私は上手い言葉が見つからずに、無表情のまま黙り込んだ。
そのまま、ぶらぶらと公園の中を歩き回ること数分。
「三、二、一……」
突然、近くにいた小学生ぐらいの子供達が秒読みを始めた。
普段なら気にも止めない他愛のない事がなんだか邪魔に感じる──と、すぐ側の噴水から、それまでの比じゃないほどに水がバァァッと、勢い良く溢れ出した!
バシャァッ
激流はピンポイント。
頭っから水を被って、私も多田も、全身がびしょ濡れになった。
「あはははは。やったぜ、大成功っ!」
さっきと同じガキ共が、遠巻きにこっちを見て、笑い声をあげる。
つまり、あの秒読みは……
「こ……ンのガキぃっ!」
私は激怒して連中を追いかけようとした。
が。
「あのっ……」
おずおずとした声があがったのは、その時だった。
振り向いた私の目に映ったのは、亜麻色に近い髪の、多田と同じくらいの背丈の男の子。
恐らくは中学生、ぐらいなんだろう。
「大丈夫、ですか? よかったら、これ、使って下さい」
男の子は、私達に二枚のスポーツタオルを差し出していた。
水色の、吸水性の高いタイプの、柔らかそうなものを。
てか。
おいおい、何でんなもん持ち歩いてるんだ、この少年は?
私は多田の方を向いて首をかしげ、再び少年の方を向いた。
その男の子は、申し訳なさそうに笑う。
「止める、つもりだったんですけど……どうぞ、どうせ僕は濡れていませんし……」
そうまで言われると、使わない方が悪い気がしてくる。
それに、どっちみちこんな濡れネズミでは、とても街中を歩くことなどできはしない。
私は、礼を言って、有り難く服や全身にかかった水分を拭うことにした。
「うわぁ、お姉ちゃん達、サイナンだねぇ」
そんなことをしていると、私より更に頭一つ分ほど背の低い、どっからどう見ても小学生の子が、無責任な口調で話しかけてきた。
このガキが、さっきの連中の中にいたかどうかは、よく覚えていない。
「浅沼ぁ……」
タオルを貸してくれた方の男の子は、ひきつった苦笑いを浮かべながらそのガキを制する。見たところ、知り合いのよう。
……なんだ。
「三田さん、また負けたんでしょう。あんな奴ら相手することなんてないのに」
「僕は浅沼みたいにはなれないから。どうせ」
二人は何やらワケありな会話を我々の目の前でやっている。
その内容から、どうやら私達にタオルを貸してくれた良い子の中学生が三田君といって、後からやって来た推定小学生が、浅沼君というらしいことがわかった。
浅沼君は不意に振り返って、興味津々といった顔つきで多田と私とを交互に見比べた。
自分の顔が幼いとは思っていたけれど、こうして実際に小中学生の顔を見て見ると、その子達はもっと幼く見える。
しかし。
「っへぇぇっお姉ちゃん達、それで同じ年なんだぁ……見えないなぁ」
「お、おいっよせよ、浅沼っ」
「「悪かったね」」
そう言われた私と多田の返答がだぶったのは、至極当然のことだろう。
……といっても、小学生の言葉にいちいち本気で腹をたてるほど、大人げないわけではない。
「す、すみません。浅沼も悪気があったわけじゃ…」
むしろ止めた側の三田君が頭を下げるのを見て、私達はどちらからともなく二人揃って肩をすくめた。
「……あ、三田君、だっけ? できればこのタオル、洗って返したいんだけど……」
それよりも、いつまでも遊んでいるわけにいかないと思い当たって、私は彼に持ちかける。
そう、今重要なのは、瑞緒の、こと。
他のことにあまりかまけてる時間はない。
「かっかまいませんよ、そんな」
ところが、目一杯遠慮して三田君は答えた。
そこまで狼狽されると、ますます悪い気がしてしまう。
ついでに、こんな調子じゃ、この三田君という子は学校で結構いじめられてそうだな、と思った。
「三田さん、なに照れてんの?」
浅沼君は彼を横目に見て、からかう。
「うるさいな。本当に、かまいませんから……」
三田君はもう一度そう言って、私と多田の手からタオルをもぎ取ってしまった。
油断していたとはいえ、反射神だって経常人よりは相当鍛えられているはずの二人から、いとも簡単に奪い取ってしまうだなんて、この三田君、いったい何者なんだろう……?
ふと、そんな疑問が頭をもたげる。
「三田さん、時間」
私がそれを追求しようかと考えた矢先、まるでそれを阻むかのようなタイミングで、浅沼君が三田君を促した。
三田君は慌てて時計に目をやる。
「うわっもうこんな時間か。そ、それじゃぁ、カゼひかないように気をつけてくださいねっさようなら」
そうして、二人の男の子達は電光石火の勢いで私達の前から姿を消してしまった。
思えばこの時、もうちょっと二人ともの言動に、注意を払っておけば良かったのかも知れない。