地下鉄の出入口周辺は、いつになっても誰かしらの声がするものである。
だから、階段を降りかけたところで女の人が「あれぇ?」と呟いた言葉を、私はたいして気に留めていなかった。
多田と話しながら歩いていると、私の顔をのぞき込むようにした背の高い女の人が一人、近づいてきた。
「やっぱり。この間、道を教えてくれた子でしょ? ほら、駅の本屋で」
その言葉で、私は彼女のことを思い出した。
広東一月のウィンドブレーカーを着ていた、TZRのお姉さんだ。
「あ、はい、そう、ですが……?」
「こないだはどうも有り難う。おかげで無事に辿り着けたわ」
お姉さんは明るく笑いながら言った。
そんな些細なことまでもちゃんと覚えてくれている、このお姉さんには、何だか好感が持てる。
あの時にはあんまり気づかなかったことだけれど、改めて見るとすっきりとした顔立ちの、なかなかの美人さんだ。
「よかったですねぇ」
心からそう言った。
こういう相手を前にすれば、私だって素直になれてしまう。
本当、誰かの時とは違って。
「それにしても驚いたわ。さっき、要と一緒にいたでしょう?」
「え?」
なのに、いきなりお姉さんの口から漏れた嫌な単語に、私は頬のあたりを引きつらせた。
な……何でっこのお姉さんが──!?
「あら、人違い? でも、あなた達だと思ったんだけど」
「い、いえ……あの」
何て言えばいいのかわからない。
そういえば家具街の方に住んでいるって話だったし、実はあの三重人格男の隠れファンだったりして……考えると、かなり恐ろしい。
「ああ、沙霧家具店って、知ってる?」
お姉さんは唐突に言葉を変えた。
私達の沈黙を察したのかも知れない。
「は、はい……」
「私、そこの娘。つまり、要の姉ってわけ」
「げっ」
事実はもっと恐ろしかった!
ファンクラブの連中だけでも十分恐いのに、よりにもよって実のお姉さんだっただなんて。
私は助けを求めるように多田の方を見た。
「え、何?」
だのに、多田は話を聞いていなかったらしく、きょとんとした表情で首をかしげてくれる。
「大丈夫、そんな焦らなくても。要相手にあんな態度してるってとこが、気にいっちゃったんだから。ほら、普通みんなあの外見に騙されてのぼせてるでしょ?」
「なっ!?」
お姉さんの言葉に、私の頭の中は真っ白になった。
いったい、なんて人なんだろう!? このお姉さんってば!!
「ほ……んきで言ってます? それ」
かすれた声でそう聞き返すと、お姉さんはにっこり笑って頷いた。
「ええ、もちろん」
強すぎる。
流石、あの弟にしてこの姉ありといおうか……
私はあっけにとられてお姉さんを見つめた。
「くしゅんっ」
その時、背後で多田がくしゃみをした。
そういえば、まだ濡れたままだった。
「ああっごめんなさいっ急ぎの用があったんです」
私はお姉さんに向かって頭を下げると、くるり、多田の方を振り返った。
「ごめん、行こう」
「え? ああ。用、もういいの?」
すると、多田はたいして気に留めたようなそぶりも見せず、そう言ってきた。
だからといって、本当に気に留めていないかどうかがわからないのが、多田の恐いところであるのだけれど。
「あ、そうそう。良かったら、名前、教えてもらえない?」
背中を向けかけた私にお姉さんが言ってきたので、私は少し考えてから正直に答えることにした。
「あっと……沖野、です。沖野、深雪っていいます」
「そう。私は藍子っていうの。それじゃあ、沖野さん、引き留めちゃってごめんなさい。どうもありがとう」
「あ、いえ、さようなら」
藍子さんは片腕を軽く挙げると、通りの向こう側に消えて行った。
「……で? これからどうするわけ?」
階段の一番下までたどりついたところで、多田が訊ねてきた。
地下鉄の駅に降りてきたからといって、この交通機関を利用するわけではない。
第一、こんな濡れたままの湿っぽすぎる格好で地下鉄のシートに座った日には、かなり悲惨なことになってしまう。
私は電話マークの掲示されたゾーンへ向かった。
「ちょっと聞いてみる」
ケータイの端子にシルバーのアタッチメントを装着し、ナンバーをプッシュしつつ答える。
「ああ…」
多田も頷いて、受話器のそばによってくる。
『はいもしもし、こちらはYM開発事業団です』
一回半のコールの後、録音された女の人の声が聞こえてきた。
私は送話器に向けてキーワードを口にする。
「申し訳ございません《デニスさん》をお願いいたします」
『──しばらく、そのままでお待ちください』
IDの設定された認証機器を挿入して固有番号を押すと、支部の存在を隠すためにあちらこちらに設置されたダミー会社に通じる仕組みだ。
もちろん、YM開発事業団も実在はしない会社である。
音声キーワードや登録コードなど複数の認証を通過することによって、それらの会社を中継する形で、支部との連絡がはかれるようになっているのだ。
『……№をお願いします』
暫時の間を置いて、事務的な声は告げた。
えーとっ、19025V43,T・KS25MO43っと。
私はいい加減に慣れた手つきで、番号を操作した。
『照会終わりました。どうぞ、《智依名》さん』
どこか、別の回線につながるような音の後、今度は耳慣れたいつものオペレーターの声がする。
私は、瑞緒の事を名前は出さずに説明して調査を依頼した。
そういう特殊能力の持ち主であるというのなら、何か確認する事ができるはずだ。
『しばらくお待ちください』
オペレーターは電話の向こうで、誰かと二言三言話しているようだった。
保留に切り替えをしていないせいで、微かに声が聞こえる。
『施設コード283にお願いします。話はそちらで伺うそうです』
「わかりました」
ややあって告げた彼女の言葉に頷いて、私は携帯をおろした。
邪魔になるアタッチメントを取り外して、多田と目を合わせる。
内容は、聞こえていたはず。
「行こう」
私たちは、同時に走り出した。