屋根の上でバランスを取りながら二人のやり取りを眺めていた朱宝は、彼らに迫る危険がないことを確認すると、背筋を伸ばして四方を見渡した。
物見櫓ほどの見晴らしはないが、向かう方角や、左右の軍の動きは辛うじて視界に入ってくる。
──璃有の部隊は、大分近くまで来てる。嵩軍は……大分優勢、多分中隊長クラスを追い詰めてる感じね。洪軍は……部隊数が減ってる? 違う。小隊一つ、璃有の援護に回ってるんだわ。
懐から取り出した双眼鏡で戦況を確認。やはり、全体の進行は順調な様子ではある。しかし。
北門の方角へ視線を廻らして、朱宝は表情を険しくした。
今まさに北門を潜り抜けんとする籠虞の手勢は僅か十数名。これを待ち構える伏兵は、軽く二個小隊はあるだろう。
速度最優先で走り抜け、疲れも見えている少数の軍勢に、傷もなく意気も充分な数で勝った軍勢。どちらに軍配が上がるかといえば──
ゴトンッ
朱宝は双眼鏡を投げ捨て、弓を強く引き絞った。
「つーか当たったらマジ奇跡ッ!」
ヒュンッ
彼我の距離に加え、障害物も多い空間。敵兵に当たらずとも、この一矢で彼等が警戒してくれればそれで良いという射だった。
「朱宝さん?」
落ちてきた双眼鏡を受け止めたらしいピカタの声。それに構わず目を凝らしていると、軽い足音が屋根を駆け上ってきた。
「どうしたんですか、急に」
「あいつらが伏兵に……気付いたッ!」
ぐっと拳を握り締める。矢が到達するのと前後して、十数名の中でも戦闘に位置する誰かの動きが変わったのが判る。そこへ、更に右軍からの勝ち鬨の声が届いた。このまま彼等が敵本陣を目指せば、伏兵の片方を何とか挟撃へと持ち込むことができそうだ。
「ピカ哥〜!!」
その時、聞きなれた声が彼女の隣に立つ少年の名を呼んだ。
振り返れば、麓絽の軍勢に底上げをされ進軍速度を上げた璃有の部隊が、間近に迫ってきていた。無事で合流できることが嬉しいのだろう、先頭を掛けるように進む少女の表情は明るい。
「籠虞殿の部隊は北門を抜けたところで伏兵に足止めされている!」
左軍の将が加わっている手前、朱宝は改まった言葉遣いで叫び、一息に屋根を滑り降りた。
「だとよ、兄者! 俺らぁまた先行ってるぜ! 朱宝、案内は任せたっ」
楓軌はぶんぶんと鉾を振り回し合図としてから、朱宝を促して走り始めた。
全く、疲れ知らずの二人である。
今度は完全に出遅れてしまったピカタは、手に残されたままの双眼鏡の処置に悩み、帯飾りを利用して、どうにか落とさぬよう腰へと括りつけた。
そうしている間に、ペンネを先頭とした後続の一軍が、ピカタの佇む廃屋のあたりへと到達する。
「これは……!」
さしもの璃有も、感嘆の声を上げた。
「璃有殿、如何なされ……なんと」
馬を寄せてきた麓絽も、目の前に広がる光景に驚きを隠せずに居る。
「璃有殿」
ピカタは屋根を駆け下りて、その場で唯一名を知っている将へと呼びかけた。その後ろには、ぴょこぴょことペンネがくっついてくる。
「ピカタ殿……これは貴殿らが?」
「殆どは楓軌殿と朱宝さんのお力です。すぐそこの納屋に、この者達の武器が纏められています。替えの武器が必要な方がいらっしゃいましたらそちらからどうぞ」
「おお! それは助かる」「して、あの二人は? 伏兵と聞こえたが」
喜色を浮かべた麓絽が合図をして、何名かをピカタの示した納屋へ向かわせる。それと被るように、璃有はピカタへ問いかけた。
麓絽も自然、表情を難しいものへと戻す。
「北門の影に更に伏兵が配されていたようです。先ほど朱宝さんが矢を射て、不意の挟撃は妨げられたようなのですが、籠虞殿の劣勢に変わりはありません」
「だからといってたった二人で突っ走るとは! まったく、あの二人は……総員、体勢の整った者から」
「お待ちください!」
頭を押さえた璃有が号令を発さんとしたところで、後方から駈けて来た蕃佑が、義兄の言葉を遮った。
「強行軍で息も絶え絶えの者も多く、捕えた敵兵の数も相当。嵩軍が東側を制圧した今、直に本隊が進軍を開始する筈」
「蕃佑! お前が楓軌らを見捨てよと申すのか?!」
璃有は愕然とした眼差しを蕃佑へと向けた。蕃佑は、静かに頭二つ分ほど下方にある義兄の双眸を見つめる。
「私は殿とはいえ、朱宝らのおかげで大分楽を致しました。楓軌ばかりに良いところを持って行かれるのも癪ではあります故、ここは我が隊に譲っていただけませぬか?」
「しかし蕃佑」
「傷病兵も兄者が共に在れば励まされましょう。虜囚の扱いも、兄者の進言であれば、そう軽んじられることもありますまい」
「う……む」
諭された璃有は、眉を寄せ、選択に迷うように両目を閉ざした。だが、
「判った。お前の話は尤もなことだ」
苦渋の選択だとでも言いたげに顔を顰めても、彼は蕃佑の言葉を飲み、改めて周囲への号令を発した。
「我が隊は傷病兵を守り、捕虜を見張るため此処で待機! 蕃佑の隊は進軍し、先行する楓軌、朱宝と合流、籠虞殿をお助けせよ!」
そこ此処から、息の合った鬨の声が号令に応じた。
蕃佑は後方の部隊に合図を送り、北門へ向けての進軍を再開する。
「お見事ですな」
決を待つ間に武器交換と再編成を終えた麓絽は、去り際、璃有へ声を掛ける。
便宜上「璃有の隊」「蕃佑の隊」と呼ばれているが、その内情は、混乱の最中隊を乱され立ち往生してしまっていた兵士達を収容して、その場で前衛・後衛と配 置しなおしただけに過ぎない。開戦のその時、彼らの配下に置かれていた者など、両手の指があれば事足りるほどの人数なのだ。
即席の部隊を、更に即席で再編しておきながら、彼らの動きは当初より余程統制が取れている。そこに人を従える者としての手腕を感じて、麓絽は感心してしまったのだ。
しかしそれを蕃佑のことと捉えたのだろう。璃有は照れくさそうに笑い、視線を酔うやっと合流する少年少女達へと転じた。
「何者にも換えがたき、兄弟なのです。きっと、彼らも……」
「ピカタ!」
妹よりは落ち着いた様子で、それでも彼の無事にホッとした表情で、ウスターはピカタに片手を挙げた。ピカタはこれに、拳を軽く合わせる事で応じる。
「哥哥(にいさん)、見てよ見て、ピカ哥ってば大活躍だったんだから!」
「こらペンネ! 勝手に隊列を乱す奴があるか」
「はーい、ごめんなさ〜い」
はしゃぐペンネをウスターが叱れば、彼女はぺろっと舌を出して、恐らく本来の配置であるらしい兄の左手後方へと下がる。
「ピカタもあんま無茶すんなよ、寿命が縮む」
「けどそれだけの価値はあったよ。この国の先行きは、暗いばかりじゃない」
「あぁ……だといいな」
ぽそりと呟かれた言葉を聞き取って、ウスターはしみじみと頷いた。二人の眼差しには、年齢には少々不釣合いな憂いが揃って浮かんでいた。
彼らのやり取りは命の駆け引き真っ最中とは思えない。