「飲みすぎですよ、こんな時間まで。火酒を6樽も空けたと厨房の者が青ざめていましたよ」

 あの後も、障りの無い与太話を肴に酒は進んだが、流石に夜も更けて、明日の政務に障るからと燕兄弟と分かれた。

 そうして自室に戻る途中の玉蘭に掛かる、静かな声。

「人聞きの悪いこと言わないで、私一人で空けたわけじゃないわよ」

「しかし、殆ど燕火将軍とあなたの飲み比べだったのでしょう」

「それを言われると返す言葉もないけどッと叙軍書?」

 武人としての勘が、そこに殺気のない人の在ることを悟らせていたために、何の気なく応じていた玉蘭だったが、相手が誰であるか認識に到らせると、はたと動きを止めた。

「お久しぶりですね、可憐将軍」

 叙軍書こと叙宵は、四関周囲の治水事業監督官として、この数ヶ月東奔西走していたはずだった。

  その彼がこの時間ここにいることにはまあ、何の不思議もなく、ひたすら同情を禁じえないのだが(酒を喰らっていた彼女らと違って、執務室に書類に埋もれつ つ篭っていたのだろう)、疲労に苛まれる体を圧して、態々玉蘭を待ち構えていた理由を思うと、眉を顰めずにはいられなかった。

 叙宵もまた、いわゆる新参者の一人であり、もとは、時期こそは違えども蕃佑同様璃有に仕えていた。

 しかし才人と名高い彼の存在を聞き知っていた嵩萄は、璃有のもとに叙宵がいることを知ると、策を立て、己が配下へと彼を引き込んだのだ。

 病勝ちな老母の療養を盾に取られては、叙宵の本心がどうであれ嵩萄を主とせざるをえない。未だ基盤の定まらぬ璃有のもとでは、老母の側に在ることが困難なのも、また、事実。

 だが、かつて自ら選び遣えた璃有に対する直接の計略は立てられないと、堂々と宣言した叙宵は、結果古参の将公の反感を買い、地味で激務でもある治水監督官を任じられるに到る。

 そしてこの人事は、蕃佑と叙宵の接触の機会を、減らす目的もあった。

 諸候は警戒している。

 璃有寄りの彼等を近付けては、いつ何時裏切られるやも知れないと。

「お久しぶりです、叙軍書殿。水路整備の計画、順調とお伺いしておりますが」

 玉蘭は姿勢を正し、キリリとした外向けの笑みで彼に返礼する。そこに、火酒を3樽近く平らげた後の、酒精の名残は微塵も無い。

 ガラリ変わった玉蘭の態度に、苦笑する叙宵。彼は迷いに視線を惑わせた後で、やや声を潜めて問掛けた。

「朔夫人のご様子は如何か」

「日々穏やかにしていらっしゃいますよ」

 応じる言葉はごくごく当たり障り無く。

「それは本当でしょうか」

「私は朔夫人の女中ではありませんゆえ、しかとは。あくまで私見で申しております」

「いえ、疑ったわけではないのですが」

 叙宵は困惑に眉を下げる。

 全く、酒の席などで燕兄弟らに絡む彼女とは別人の対応だった。そして、普段噂に聞く彼女の人となりとも。

  玉蘭は嵩萄軍には珍しい女の将官であり、武骨ではない立居振舞いも備えていたため、特に命じられて朔夫人―――璃有の奥方である佳鈴の話し相手をつとめて いた。勿論、その裏の意図は彼女の監視であり、少しでも佳鈴が持つ警戒を弛めるために、敢えて新参の玉蘭が起用されたという経緯もある。

 だが、佳鈴がこの地に留め置かれる真意を知り、新参者の重用を好まない者達にとっては、朔夫人隔離が命じられた後も変わらず面会を認められる玉蘭の存在は、疑わしく疎ましいの二語に尽きるのだった。

 であればこそ、玉蘭は蕃佑や叙宵には一線引いた対応を見せる。

 例え、無理強いで降らされた彼等や、その道具として利用された夫人らを哀れに思う気持があっても。

「お話がそれだけでしたら、私は、これで」

「あっ可憐将軍!」

 踵を返す玉蘭の腕を、叙宵は慌てたように掴み止めた。

「まだ、何か?」

「あ、いえ」

 だがしかし、静かに見返す彼女の瞳に、これ以上の情報を引き出すことを断念したのだろう。

「お引き止めだてして、申し訳ありません。貴重なお話を有難うございました」

 残念さをありありと感じさせる面を伏せて、叙宵は礼の言葉を呟いた。

「いえ、叙軍書殿こそ慌ただしい身。ご心配は程々にされるのがよろしいかと」

 玉蘭は、未だ掛けられたままの叙宵の手を、失礼に当たらぬよう気を付けて外して、今度こそ、自室へと歩みを再開した。

 

 

 

 

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 とりあえず「火酒」の名前は適当に。アルコール度数の馬鹿高い醸造酒だと思ってください。
素材提供元:LittleEden