悪い噂ほど世に容れられるとは、どのような場所でも変わりは無い。
しかして、嵩萄の耳にまでその噂が届くには、さしたる時を要しなかった。
「嵩宰相、如何なされるおつもりですか」
江嘉皓は苦い顔で主君に裁断を求めた。
噂というのは厄介なもので、それが間違いであると知る数名がいても、大多数には噂こそが真実と思い込まれる性質を持っている。
ましてやそれが色恋沙汰ともなれば、真偽を質すのも、真偽を明かすのも非常に面倒であること限りない。
今流れているその噂とは、二つあった。
一つには、璃有の夫人・朔佳鈴逃亡を画策する叙軍書が、夫人に近付く機会を持つ可憐将軍を抱きこんで、深夜に密談を行っているというもの。
叙宵の下においている監視役達からは、そこまでの暇を作り得ぬほどに日夜仕事に追われている叙軍書の有様を聞きだし、可憐将軍においては賄所の女官や雑役夫達が胸を悪くするほどの連夜の飲み比べへの参戦の事実から、これについては馬鹿馬鹿しいと一笑に伏すことができた。
可憐将軍に戦場以外での策謀の暇はなし。
なによりそう太鼓判を押す存在が、嵩萄の信の厚い燕兄弟や嵩渓、常柳らだったために玉蘭は要らぬ嫌疑を免れたといえる。
だがしかし、叙軍書と可憐将軍にはもう一つ、別の噂もあった。
叙宵が翠玉蘭に恋慕の情を抱き、深夜酒に酔った彼女を待ち伏せて接吻した。玉蘭は人目を憚って走り去ったものの、まんざらでもない様子である───玉蘭が 連夜酒に溺れるのは、逢瀬の叶わぬ情人を待ち侘びているからだ等という尤もらしい憶測も飛んで、こちらの噂はより高い信憑性をもって城内を席巻した。
どちらもが二人の深夜の対面を語っている噂ではあるが、策謀と違って恋愛には複雑な言葉は不要の物。なれば、言葉は交わさずとも束の間の逢瀬を求めて深夜 を待つのだという出歯亀達の邪推には、一つ目の噂には力強い否定を与えた将軍達も、きっぱりとした反証は浮かんでこなかった。
「しかし玉蘭か……あの娘が叙宵のような文人を好むとも思えんが……」
「可憐将軍はあれで妙齢の女性ですからね。華々しい武功に気圧されて、そういう意図で声を掛けられる者も少ないのでは、若しくは」
「ふむ、それも一理ある、か」
考え深げに頷く嵩萄に、真逸が尤もらしく頷けば、江嘉皓もそれに同意する。
「だからといって、あの二人が関係することを、よもや許容するわけにも行くまい」
親璃有派の叙宵と、朔佳鈴の監視役が恋仲とあっては、これまで勘繰らなかった者達まで玉蘭の動向を勘繰るようになるだろう。それに、そのまま捨て置いて下手をすれば、彼女までが璃有に感化され、嵩萄に弓引く存在となりかねない。
「わが軍における可憐将軍の立ち位置は、未だ定まっておりませんからな」
「あぁ、しかし今となって将軍に後ろ暗い噂が立つのは、兵の士気にも関わる」
軍師二人は揃って溜息をついた。
相前後して嵩萄の配下となった四名───蕃佑・叙宵・翠玉蘭・松傲。このうち何かと消極的にしか働きを見せない先二名に対し、残る二名は積極的な仕事振り に加え、それぞれのやり方で古参将兵達との溝を埋めようという前向きな姿勢が感じられた事から、軍師達の人物評価は後者を高く買っていた。
だからこそ残念でならないのだ。こんな下世話な噂が元で、折角築いてきた友好関係を乱されてしまうことが。
それに、四名中最も早くから嵩萄の下に膝を折った彼女までが離反すれば、松傲に対する風当たりも勢い厳しくなる。女人で将官にまで上り詰めた者の前例が無 く、確たる後ろ盾があるわけでもない故に、公的身分としては微妙な位置づけとなる彼女ではあるが、良くも悪くも存在感は大きく、故に初の女将軍に色恋は抜 きとして好意的な目を向ける者も少なくは無いのだ。特に彼女の下で行軍の経験を持つ下級士官達に、可憐将軍の名は相当の信を向けられている。このまま捨て 置いたのでは、叛乱や内部分裂すら、警戒しなければならなくなる。
「ならば、叙宵が手出しをできぬようにすれば良いのだろう」
軍師達のやり取りを暫し黙って聞いていた嵩萄が、ゆっくりと、組んでいた腕を下ろした。
二人の視線が、主へと集中する。
「殿、それでは」
促す江嘉皓に頷いて、嵩萄は真逸に命じた。
「今宵、可憐将軍翠玉蘭を我が寝所へ」
「は? はっ畏まりましてございます」
一瞬虚を疲れた表情となった真逸だが、直ぐに主君の意図を察し、命を伝えるため、宰相府を後にした。
人の口に戸は立てられませぬ〜。そして他人の色恋沙汰ほど軽々しい噂話にはもってこい。