その日の酒場は、いつに無く静かだった。

「なぁ、玉蘭。そろそろ刻限じゃねぇのか?」

 いつもの酒盃の代わり、茶碗の白湯をちびちび舐めている翠玉蘭に、燕覇煉が気を揉むように促した。

 玉蘭は椀を傾けたままちらり、静まり返った酒場に居合わせた人々を眺めやる。

「玉蘭」

 そのまま腰を上げようとしない彼女を、咎める声が呼んだ。

 すると漸く、玉蘭は叩きつけるように卓上に茶碗を置くと

「解っていますよ、燕烈将軍! 行ってくるけど、今夜中には戻れそうも無いから勝負はまた後日ね、煉哥」

びしっと覇煉を指差して、憤懣やる方ないといった様で酒場を去っていった。

 

「また後日って……無理じゃねぇの?」

 勢いに圧されて何も言い返せなかった覇煉は、彼女の靴音が聞こえなくなるほどの間を置いてぽつり、呟く。

「さあな」

 対する燕覇淘の相槌は、今日もそっけない。

 ここにいる誰もが、玉蘭と叙宵に関わる二つの噂を聞き知っており、その上で、彼女が嵩萄に呼び出された意味を知っていた。

 最も無防備になる寝所へ、勲功華々しく武の立つ玉蘭を招き入れる。

 それは即ち、嵩萄から玉蘭への無上の信頼を周囲に表すものでもあり、主君の手つきとなった事実により、叙宵の立ち入る隙を断ち切るものでもあり、また、それらとは対照的に、彼女ごときでは丸腰の嵩萄の寝首を掻く事すらできるわけは無いと知らしめるものでもあり。

 応じぬことは即ちこれ翻意ありとみなされかねない状況下において、彼女がどのような判断を下すのか。それに気を取られて、今宵の酒場は皆玉蘭に意識が集中していた。

 そして彼女は、嵩萄の呼び出しに応じた。

 今までは、同じ将官同士であったから、気安く飲み比べなどにも誘うことができたのだが、あくる朝戻ってくるであろう彼女は、すでに主君の寵妃である。これまでのように、雑多な雰囲気で賑わう酒場の一角で酒を酌み交わすなど、到底、叶うとは思えなかった。

「あ〜あ、嵩哥にゃ敵いっこねえって解ってるけどよ〜」

 酒場にいるにも拘らず、大好きな酒を一滴も摂らぬままに覇煉は卓上に突っ伏す。その視線は、玉蘭が置いていった茶碗に残る紅の跡をじっと見つめていた。

「愚痴るくらいなら先に言っておけ。俺が娶るから誰も手出しするなとでも」

 常と変らぬ真直ぐな姿勢で酒椀を傾ける覇淘は、その隻眼でじろりと弟を睨みつけた。途端、ぼんっと覇煉の顔に火が走る。

「淘哥っ?! わ、な、そんなこと本人の承諾も無しに言える訳ねえだろッ」

「なら、黙っていろ」

 すっぱりと切り捨てて、覇淘は手酌で椀に酒を満たした。

 

「燕烈将軍も平静ではいられないようですね」

 少し離れた卓で酒を舐めていた松傲が、苦笑して向かいの頑湧に話しかける。

「んあ? どういうことだ?」

 筋張った炙り肉をどうにか噛み千切ろうとして、それに成功したばかりの頑湧は、同僚の突然の言葉に首をかしげる。

 そもそも彼の椅子は、燕兄弟の卓に背を向ける配置にあった。

「いつもより酒の進みが速い。底なしの酒豪二人が呑んでいないのに、もう1樽分空けていますよ」

尤も、向かいにいる燕火将軍はそれにすら気づいていないようですがね。

指摘の半分は胸中に止め置いて、松傲は頑湧に解説する。

「なんか……魔性の女みたいだな。ガラじゃねぇけど」

「えぇ、全然、彼女のガラではありませんけどね」

 ごくんと肉の塊を飲み下した後に正直な感想を頑湧が告げると、松傲もまた、含み笑いで是と頷き、酒盃を口に運んだ。

 

 

 

 

 

 

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酒場がデフォルト配置のヒロインって微妙?
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