「翠玉蘭、お呼びにより参じ仕りました」

 扉の前に片膝を付き、玉蘭は奥にいる主へと声をかけた。

 薄くとはいえ常にはしない化粧を施し、愛剣は持ち込めないため燕覇淘に預けている。

 それでも己は武官であるとの意識が、彼女にいつもどおりの礼をとらせた。

「入れ」

 命じる言葉はとても短く、玉蘭は「は」と応じて扉を開ける。

 彼女にとっては幸いなことに、嵩萄は執務時と変らぬ衣装を身につけていた。

「礼はよい。話には聞いていたが、化けるものだな」

 跪拝しようとする彼女を手を払って制止した嵩萄は、興味深くまじまじと玉蘭の顔を眺めた。

 そこに在るのは、一人の女を前にした一人の男、ではなく、目の前の相手を冷静に分析する、一人の為政者。

 玉蘭は「やっぱり」と内心で溜息をつく。

 しかし口に出しては

「殿の御前になるために整えて参りましたが、不快でありましたらお許しください」

務めて穏やかに言えば、嵩萄は心底おかしそうに笑った。

「不快? とんでもない。むしろ儂への気遣い嬉しく思うぞ」

「ありがたきお言葉──」

「何じゃそなたらしくなく堅苦しい。いつも通りにせぬか」

 皆まで言い切らぬうちに嵩萄は眉を顰め、再び手を乱雑に払った。

「呼び出したのは他でもない。そなたと、叙軍書の噂に関してじゃ」

「事実無根のことにございます」

 来たな、と玉蘭は胸中に構える。

 噂が彼女自身の耳に入ってから、玉蘭はそのきっかけになったであろう出来事についてを考えていた。しかし、何度考えてもあの時一度限りのことしか、思い当たる節は無い。

「だが、火の無いところに煙は立たんだろう? 実際は叙軍書との間に何があった?」

 予測どおりの次の問いかけに、だから彼女は冷静に応じる。

「過日酒場から帰る途中、執務室帰りの叙軍書に呼び止められましてございます」

「玉蘭……斯様な口調を続けていると虚飾とみなして引っ立てるぞ」

「失礼を。仕事帰りの叙軍書と偶然行き会いまして、朔夫人の加減を問われたんです」

「ほお。それで?」

 ようやっと普段どおりの話口調となった玉蘭に満足そうに頷いて、嵩萄は先を促した。

「日々を穏やかに過ごされている、とそう答えて別れました」

「なるほど。愚臣どもは、そうは思っていないようだがな」

 嵩萄の笑みが苦笑に変る。

 玉蘭は憮然として

「しかし事実はそれだけなのです」

「儂はそなたを信じよう。しかし、今それを世間に明かしても、信じるものは殆どいるまい」

「わかってます」

まさか主君に対し、燕兄弟にするようには噛み付くこともできず、むっつりと頷き返した。

 嵩萄は目を細め、宥めるように彼女の髪を撫でる。

 その指先が、動作の延長に玉蘭の顎を捉える。

 音も無く、香台の灰が崩れ落ちた。

「噂を好む者には、噂を返してやればよい。それがより強烈で、まったき事実に裏打ちされたものと知れれば、今更古い話を蒸し返す者は少数となろう」

 僅かに、嵩萄が近寄った分だけ玉蘭は後ろへ下がった。それを嵩萄が追う事は無く、だが彼女の顎にかけた手を外すでもなく、二人の間に微妙な沈黙が下りた。

 ゆらゆらと揺れる蜀台の火が、彼女の心情を表すように一陣の風に乱される。

 外に活動するだろう梟の羽音と鳴声が、耳障りなほど大きく聞こえる。

「男に身を委ねるのが怖いか?」

 ややあって静寂を破ったのは、嵩萄のほうだった。

 探る視線と案ずる気遣いが、玉蘭の全身へと注がれる。

 玉蘭は短く否と答えた。

「では、誰ぞ操立てする相手が居るのか?」

 その問の答えも、否。けれど間を置いて、

「噂のことをまだ仰られるなら、叙軍書は失礼ながら私の好みからは離れています」

言外に含まれていた問いについての釈明を加える。

 操立てをするような、二世を誓い合った相手がいるのなら、彼女も噂の上がった時点で誓言する。

 彼女の性格を充分に見越していた嵩萄は、そうだろうと頷いた後、では、と最後の問いを玉蘭に与えた。

「では、儂の側娼となることは厭なのか?」

「状況的に見て……」

 玉蘭はこの問にだけは、率直な返答をすることができなかった。

「そうすることが最も効果的だとはわかっています。現在芳国内に在る女性として、この上なく歓ぶべきことなのだとも」

「では」

「時間を、いただけないでしょうか」

 促す嵩萄の指先を、俯くことによって逸らし、玉蘭は力なく呟いた。

「それでも私にとっては一生の大事です。心の、準備がしたいんです」

「無理強いはせぬ。叙軍書への牽制は今宵だけでも充分に効いたろう」

 肩を竦める嵩萄は、彼女の願いを聞き入れた。

 だがしかし。

「そなたの我が軍での足場を磐石にするには──答えはいつでも構わぬが、わかるであろう?」

 釘を刺され、玉蘭はまた四肢を強張らせた。

「肝に、銘じておきます」

「ならば今宵は下がれ。じっくり考えるのだ」

「御意」

 許しを得ると、玉蘭は血の気の失せた顔を伏せ、嵩萄の寝所を辞した。

 

 最初から、解っていたはずだった。

 この刻限、この場所に呼び出された以上、嵩萄の誘いに対する答えには是しか用意されていないのだと。

 それでも玉蘭には、その場で是とは、即答できなかった。

 

 

 

 

 

 

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 この二人の年齢差は十四。まあ、先代巫王と第七妃(爽月妃)ほどの歳の差ではないのですが。
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