「随分と早い帰りだな」

 自室への帰り道、中庭を通りかかったところで彼女を呼び止める声があった。

「淘哥……」

 先刻酒場を出て行った時とはまるで異なる覇気の無さに顔を顰めて、覇淘は無言で彼女を己の隣、石段へと座らせる。玉蘭は覇淘の行動に惑ったが、大人しくその場所に落ち着いた。

「お前がいないのにいつもどおり酒が運ばれてくるから、つい呑みすぎてな」

 玉蘭が何も言わないでいると、覇淘はふと苦笑混じりに零した。そして

「もうあの無茶をやらかす二人が揃うことは無いのだから、湯水のように運んで寄越すのは止めろとでも言っておくか」

良いことを思いついたとばかりに独りごちて、喉の奥にくくくと笑う。

 びくっと玉蘭の肩が揺れた。

 すると覇淘は息を吐いて、笑気の失せた目を彼女に向けた。

「嵩萄の、何が不満だ」

「え」

 呆然と彼女が見返せば、覇淘の眼差しは険を増す。

「こんな時間に帰って来て、よもや事を済ませたと吹聴する気はあるまい。第一嵩萄に抱かれたのならその衣装、もっと着崩れていよう」

「な、と、淘哥ッ」

 あまりに直接的な問いかけに玉蘭は慌てふためくが、覇淘はあくまで真剣な表情をしていた。

 流石は長年行動を共にしてきた従兄弟。寝所を出てくる女の様もおおよそに心得ているらしい。

 玉蘭は俯いて、渋々と今日嵩萄との間にあった出来事についてを語り始めた。

 

「どんなガキの言い訳だ」

 彼女の話を聞き終えた覇淘の第一声は厳しかった。

 酒気の残る息を深く吐き出し、呆れの篭った視線を玉蘭の頭頂に向ける。

「だって、そんなこと言われたって」

 べしょりと膝の間に状態をめり込ませて、玉蘭は呻くように反論する。

 そこにいる男の性格から、一言の下に斬って捨てられるだろうとは思っていても、現実となれば心理的損傷は大きい。

「淘哥だったら……嵩戴哥から政略婚を命じられたら、どうする? そうすることが戦略的に必要だって言われたら、それだけの理由で、誰かを抱ける?」

「それがガキの発想だというんだ」

 覇淘はまた溜息を吐いた。

「俺達は嵩萄の配下だ。有用たらん事を己に任じている、奴の手駒の一つだ。その奴が、詰まらん噂から態々手を伸ばして救い上げんとする程には、お前の力は必要とされている。何を迷う必要がある」

「そりゃあ!」

 むきになって、玉蘭は言い連ねた。

「そりゃあ、私だってそんなことは解っているしっ初めての床に怯えるようなウブじゃないしっ処女なんてどうせとっくに奪われてるしっ断ったっていいことなんて何も無いのも知ってるけど!」

「おい」

「惚れた腫れたとか優美とか典雅とは無縁の存在だしっ好んで嫁にとる物好きなんて早々現れないことぐらいわかってるしぶっちゃけ昇進の機会だって割り切っちゃえばなんてこともないのかもしれないけど!!」

「おい、玉蘭」

 静止の声を聞かぬ彼女に、今度頭を抱えたのは覇淘の方だった。

  先に露骨な物言いをしたのは彼であったが、しかし、曲がりなりにもうら若き女性である玉蘭の口からあけすけな物言いをされてしまうと対処に困る。それも、 夜中。周囲に人影は無くとも、静まり返ったこの時間に甲高い声で喚かれた日には、過日よりの噂どころではなくなってしまうだろう。

 彼の様に我に返ったのかは知れないが、二度目の呼びかけの後、玉蘭は幾分か声量を落として言った。

「ガキじゃないんだから、迷うんだよ。その後の自分がどうなっちゃうのか……考えたら安易になんて飛びつけない」

 覇淘は顔を上げて玉蘭の表情を知った。

 それは今にも泣きそうでいて、それでも既に何かを決意したような、強い表情だった。

「俺は……」

 その眼差しに何故か危機感を覚え、覇淘は彼女から目を逸らさぬまま、一聞、話をそらすように語りだす。

「俺は、嘗て嵩萄を裏切った。奴を置いて一人で海を渡り……ほんの数年。たったそれだけの間に片目を失い、落ちぶれて襤褸屑同然の無様な生ける屍となった。だが、他人の情けのおかげでどうにか逃げ帰った俺に、生きる目標を与えたのはあの男だった」

 脳裏に浮かぶのは、自棄になりかけた自分をそれぞれに引き上げてくれた、二人の男の姿。嵩萄と、墺鎖国にある組織を束ねる鋼の意志を持つ壮年の男とは、覇淘にとっての絶対者に他ならない。

 そして今、覇淘が傍らに在るのは嵩萄。

「なれば俺の全ては嵩萄のためにある。嵩萄に仇為す存在は、この俺が全存在を賭けて切伏せる」

「言うと思った」

 苦笑いをしても、玉蘭の目は悲痛な色を無くしはしなかった。

 むしろ、言い切る覇淘との間に意見の決裂を感じたように、彼女はふいと横を向いた。

「玉蘭……」

 そのまま立ち去りそうな彼女を呼び止めて、覇淘は脇に置いていた一振りの剣を差し出す。

 彼女愛用の細剣・珠粋一刀。

 著名な刀工・秤弦が打ち出した名刀を彼女に返す。それは多少の懸念を抱きながらも、まだ彼女を仲間として信頼していると告げる、その証。

「おやすみなさい、淘哥」

 受け取った玉蘭は、漸く、本日初めての柔らかい笑みを浮かべ、彼の前から去っていった。

「嵩萄を、裏切るな」

 すぐに夜陰に紛れた背中に呟くと、覇淘もまた一人、家路へとついた。

 

 

 

 

 

 

戻 基 進 

 
 淘哥のもう一人の恩人は、Crystallist1,2に登場する人物です。
素材提供元:LittleEden