それからの数日間は何事もなく過ぎ去った。

 玉蘭が酒場に顔を出すことはなくなったが、再び嵩萄の寝所への呼び出しが掛かることもなく、空いた時間に彼女が何をしているのかといえば、胡弓や舞踊の稽古という思いがけずに女らしい物事。

 昼間には城下にて化粧品や装飾品の品定めをする姿も目撃され、正式な返答は未だであるものの、いよいよ彼女も覚悟を決めたかと、当初の思惑通りに噂の中身は変遷していった。

 そんなある日のこと。

 

「嵩宰相っ蕃佑が郎党を連れて城門を突破しましたッ!!」

 悲鳴じみた伝令の声が、議場一杯に響き渡った。

「何?! 朔夫人はどうしたッ蕃佑ほどの男が夫人を捨て置けるはずは無かろう!」

 色めき立つ諸将のざわめきを凌駕する一声が、嵩萄の口から放たれ、凶報をもたらした伝令に答えを求める。

 狼狽した伝令は将らの怒気に中てられ、続く言葉を発せられなくなってしまったが、更に彼の後ろから駆け込んできた女官が、その不足分を十二分に補う結果となった。

 即ち──

「宰相閣下ッ朔夫人の室が蛻の殻ですっ」

「何だとッ?!」

 ざわめきは怒号へと変化した。

 苦々しく舌打ちする者、罵るように蕃佑の名を口にし、唾棄する者、早々と己の得物へと手をかけ、逃亡者を追いかけるべく外に半身を乗り出す者。

 それらの中にあって玉蘭は蒼ざめた顔に、真円に見開いた眼で伝令と女官とを見つめていた。

「そんな……まさか!」

 呆然とする様に、嘘偽りは無い。

 密かに彼女の手引きを疑って掛かった嵩渓だったが、それを見て取ると慰めるように玉蘭のせいではない、と言葉をかける。

第 一、彼女はこの数日朔夫人の居室には足を向けていなかったし、この会合が開かれる直前までは、真逸・常柳らと徴兵並びに用兵に関しての議論を行っていたと いう、不在証明があるではないか。玉蘭の楽や舞については、奥付の厳しい女官頭が直々の指導も入れていたというほどだから、よもや謀って画策を施すほどの 暇も与えられてはいまい。

嵩渓とて蕃佑の暴挙に腸が煮える思いはあったが、もとより蕃佑が真の味方となろうという幻想は抱かずに来たため、来るべきときが来たのだと冷静に思考する頭は持っていた。

彼がむしろ驚いたのは、心底愕然とする翠玉蘭の姿にこそだ。

「私が、夫人の様子をもっと気にかけていれば……!」

 玉蘭は紅をはいた唇をぎりりと噛みしめ、悔しそうに呟く。

 確かに、抱き込んで共に逃亡を企てるのなら兎も角、嵩軍の将でもある彼女が頻繁に出入りしていたこれまでの状態では、計画を立てることも容易ではなかっただろう。

週何度の訪問をとまで命じられていたわけではないが、それでも、突如持ち上がった他の物事に感けて、誰に後を引き継ぐでもなく放置していたのは、明らかに彼女の落ち度だと言えた。

そこまで気付いては、嵩渓に掛ける言葉は無い。

彼は無言で彼女の頭を撫でると、次の判断を仰ぐべく、壇上に在る従兄弟へと視線を向ける。

「うぬぬぬぬ……!」

嵩萄は歯を食いしばって、両手に力を込めた。

ばきり、と手にした配が、掌中で上下に折れ曲がる。

衝撃と怒りと屈辱で、どこかにその憤懣を逃がさなければ、知らせを持ってきた二人に当り散らしてしまいそうだった。

だがしかし、辛うじてそれを圧し止めた理性も、周囲を御する文言を吐き出すまでには至らない。

「殿」

 そんな嵩萄をたしなめるのは、軍師として彼の信を受けている江嘉皓。

 彼は嵩渓以上に冷静に、室内の人の動きを観察した後に、主へと声をかけた。

「よもや、この期に及んで蕃佑を引き戻すおつもりですか」

 決して大きくないその声に反応したかのように、今にも飛び出さんばかりでいた将達の意識が嵩萄へと集中する。

「しかし今から後を追い、討つにせよ捕えるにせ、よ相当の犠牲を覚悟せねばなりますまい」

 応じない嵩萄の代わりに、真逸が言葉を返す。

 勿論、嵩萄が明確な言葉で応じられぬのも、それを知っていてなお蕃佑を惜しむ気持ちがあったためだ。

 嘉皓は眉を顰めた。

「ならば……ぬしらはどうせよというのか」

 咽喉の奥から絞り出した声で、嵩萄は軍師達に意見を求める。ひと時の怒りに流されかけても、すんでのところで踏み止まれるのが彼の主として優れた点だ。

 ちらりと真逸と目配せしあってから、江嘉皓は答えた。

「こうなっては、このまま蕃佑を見逃す他は無いかと」

「何ッ?!」

 思いもかけない軍師の言葉に、嵩萄どころか居並ぶ者が皆、目を剥く。

 嘉皓は片手を挙げて彼らを制し、

「無論」と言葉を続けた。

「無論、ただ見逃すのではありません。蕃佑らの目的は璃有との合流。なればかの者へと至る関所に手配し、──」

「そこをひっとらえるって事だな?」

「いいえ」

 意気揚々と口を挟んだ頑湧には首を振って返す。

「内より攻め上がる蕃佑に太刀打ちできるほどの剛の者が、彼の地に構えているとは思いませんな」

「では、どうせよというのだ?」

「開門を認めるのです」

 さらりと放たれた言葉に対する衝撃は、見逃す発言以上の効果をもたらした。

 怒涛のように人々は嘉皓へと詰め寄る。

「さては貴様が図ったか!」などと気色ばむ将らにたいし、横に払われた嵩萄の左手が防波堤を務める。

「他に道は無いと申すか」

 激昂が冷めたのか、今度の問いかけはとても静かであり、余人の割り込みが掛かることを許さない雰囲気があった。

「我が軍の士気並びに物品・将兵等あらゆる要素に最も損害を少なくするには──」

「蕃佑を素通りさせ、それによって殿の度量と温情を示し、璃有らに借りを作らせることです」

「…………止むを得まい」

 長い沈黙の後に、嵩萄は頷きを返した。

「たった一人を求むるあまりに、我が朋友、信義ある者達を犠牲とするわけには行かん」

 一旦は主の決定にどよめいた諸将らも、蕃佑一人よりも現在の部下を選ぶという嵩萄の言葉を聞いて、いくらか胸の痞えを下ろした。

 何としてでも蕃佑を討ち取りたい気持ちも山々だが、闇雲に掛かっていって無事に収まる相手ではないことは、皆これまでの蕃佑の戦いぶりで熟知している。また、だからこそ嵩萄が彼を手中に収めんと手を尽くしていたことも。

「……お前がそれでよいというのであれば、私はそれに従おう」

 嵩渓が真っ先に同意を示した。続けて、納得しきれない様ながらも覇煉、覇淘と一族の者が頷けば、他の将もこれに倣って首を垂れる。

 軍師二人は胸をなでおろし、

「では、関所への伝令の件ですが」

「お待ちください!」

真逸が手配の許可を求めんと語る言葉を、遮る声が上がった。

 

 

 

 

 

 

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 ただ一人が重んじられる現在の状況に懸念を抱いていたのは、勿論、軍師達も同じ。
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