ぽふ、と頭上に置かれた手には、替え難いぬくもりがあった。

 お前のせいではない、そう言われても、手落ちを恥じ入る気持ちは彼女自身の中に在る物で、素直に受け取ることはできない。

 叙宵との何某かの噂に対する警戒と、同じ噂の影響によって降って沸いてきた難題に気を取られたあまり、さらにそれらの契機となった監視対象を取り逃がしては様が無い。これまでに、仕事では過失らしい過失を犯したことは無かっただけに、かなりに痛い失態であった。

 結果、引き伸ばしてきた難題に、是と応えねばならない時は、間近に迫るものとなる。

 難題──それを突きつけられて以来、玉蘭は仕事の手が空くといつも胡弓を奏でながら自問を繰り返していた。

 何故自分は、未だに将としてこの蔚に留まり居るのかと。

 当初の彼女の目的は、父母や姉を死に至らしめた賊や悪官僚への復讐だった筈。

前 者は兎も角、後者に最も効率よく近付くためには、戦乱を収める一将として名をあげ、その得た地位を利用してかの者と対面し首実検を行う必要があった。その ために、ふざけた条件でとはいえ男女の別なく配下を募った籠虞の下に赴き、後、より動きやすい環境を求めて嵩萄の誘いに応じたのだ。

しかしながら、嵩萄旗下に加わって間もなく、仇の消息が判明して、無碍に散らされた命の無念さをまざまざと知らしめた上に、これを討ち果たすことができた。

当 初の目的を思い描いていたよりも疾く成し遂げた彼女は、それから数年、嵩萄配下の将の名に恥じぬ数々の働きを見せ、今なお一人の将軍として、この場所にい る。それは殆ど、事の成り行きといったものであり、悲願を達成する機会をくれた嵩萄に対する恩義もあればこそのことでもあった。

であればこそ、思うのだ。

己 には、今現在のこの地位に何が何でも齧り付いていたい程の執着は無い。これまでの働きで、取り立ててくれた嵩萄への誠は充分に示している。態々将としても 女としても嵩萄のものとなり、その情に縋ってまで足場を固め留まりたいと、そこまで確たる願いが今の自分には果たしてあるのだろうかと。

嵩 萄の寵妃になれば、確かに対内外的に彼女が彼らの傍らに在る根拠、これまで以上の後ろ盾を得る事となるだろう。けれどその立場に甘んじるのでは薄氷の上に 座するのと同様──将としては一線から退けられ飼い殺しとなり、寵妃としては嵩萄の気紛れに振り回されるのが落ちにはなりはすまいか。よしんば、それが単 なる杞憂で終わったところで、諸侯・諸将とのかかわりは今以上に複雑に、多少の振る舞いでまた、より悪質な噂に神経を尖らせながら日々を過ごさねばなるま い。

女としての幸せを絶対者からの寵愛に求めるような人間であれば、まだそれらの物事にも耐 えられようが、生憎玉蘭はそういった価値観を持たずに育ってきた。むしろ、父母を失い姉を亡くした経緯があれば、彼女の「女として求める幸せ」はその価値 基準とは対極にあるといっても過言ではなかった。

嵩萄ほどの者であれば、ほとぼりの冷めた頃、折を見てそのことを伝えれば、理解を示してくれたかもしれない。何より彼は女としての彼女を然程欲していないのだから、玉蘭がこの地にとどまる他の理由が公ともなればそれを敢えて覆そうとはすまい。

しかしながら、思索を巡らせている間に、最悪の形で機会が失われた。

失態を論う文官達は、これ以上彼女の結論が先延ばしされることを許さないだろう。これを謹慎の口実として、その間に是と応えねば、そのまま翻意ありと牢に送られるやも知れない。そして公正さを思えば、その対応が人道に悖っているとは決して言えたものではないのだ。

留 まるか退くか──留まるなら、是と応え、自身の描く「幸せ」は恒久的に捨てなければならない。退くは留まるよりも難しく、正面から申し出ることは不可能。 卑怯者や裏切り者との謗りを身に受け、また、彼女を慕い従ってくれた部下達を見捨てていくのも同義。だが我をいうのであれば、退けば少なくとも翠玉蘭とい う存在を、荷重に耐えかねて磨り潰されることは免れる。もしそれが、実現可能であるのならば。

「蕃佑を素通りさせ、それによって殿の度量と温情を示し、璃有らに借りを作らせることです」

 そのとき、江嘉皓の言葉が耳に入った。

 玉蘭ははっと我に返って現実の会話に意識を向けなおした。

 その場では、蕃佑を留める事よりもそれを試みることによって散る者達を惜しみ、むしろ璃有への予防線を張らんという結論に意見が統一されようとしていた。

  蕃佑の過度な重用に不満を抱いていた者達にも、嵩萄自ら彼を手放すことを容認したことが喜ばれたのだろう。一人が同意を示せば次々と、賛同の声が上がる。 (もっとも、彼らのうちの何割かは、自軍の将でなくなった以上、戦場で蕃佑と雌雄を決する機会ができた事を歓迎しているらしく、好戦的に爛々と輝く目を隠 そうともしていなかった)

 それを受けて、真逸が改めて嵩萄へと裁を求め

「では、関所への伝令の件ですが」

「お待ちください!」

語る途中、玉蘭はそれを遮るように声を上げた。

 衆目が彼女へ一点集中するが、玉蘭は敢えてそれに気付かない振りで、堂々と嵩萄へと向かい立った。

「その任、私にお任せいただけませんでしょうか」

「何?!」

「ふざけるなっ!」

 途端、主の応えも待たぬ間に、居並ぶ者達の怒号が彼女へと降りかかる。嵩萄はただ、興味深げに玉蘭を見下ろし、配下の怒りが一通り収まるのを待った。

 面白いことに、可憐将軍の容認派筆頭と目される燕兄弟の内、弟の覇煉は目を白黒させているだけなのだが、兄の覇淘は声を荒げた者達の中に含まれている。

 嵩萄は折れた配で玉蘭を指し示した。

「大層な人気だな、可憐将軍。では名乗りを上げた理由を述べてみよ」

「私が監視の目を緩めたことが逃亡成功の一因なれば、私自身の手で挽回させていただきたく」

「可憐将軍の失態であれば、将軍には身を慎ませるのが妥当なところではないかな」

「御意。何か申し開きは有られるか、可憐将軍?」

 嘉皓に促され、玉蘭は頷きを返す。

「謹慎をと命ぜらるれば、謹んでお受け致しましょう。しかしながら、失礼かとは存じますが、この場にお集まりの諸々の方々の中で私ほど今回の伝令役に相応しい者も見当たらないように愚考いたします」

 玉蘭の発言はまた騒ぎと怒りを呼び込んだ。

 あまりに騒然となった場内を、本気で静める気もないのか、折れた配で嵩萄が机を叩く音も罵声に紛れるほど小さい。その彼の眼差しは、彼女の出方を伺うように、先刻から玉蘭一人にじっと注がれているのだが。

「斯様に!」

 結局この空気を払拭させたのは、声を大にした玉蘭自身だった。

「皆々様は頭に血を上らせていらっしゃる。あなた方が蕃佑殿と行き会って、斬り合いにならないとは、申し訳ありませんが楽観致しかねる。これが、私が己の挽回の為以外に、伝令の名乗りを上げた第一の理由です」

 図星を刺された諸将はぐっと言葉を詰まらせた。

 ばつが悪く声を封じられた分、より怒りの篭った視線が玉蘭に突き刺さるようになる。その様に苦笑して、

「それはそれは」

と口を挟んだのは嵩渓だった。

「耳の痛い話です。しかし、この場に居るのは、今にもあなたを絞め殺そうというような殺気立った者ばかりでもなかろう」

「仰られるとおり。破砕将軍や燕火将軍のように思慮を持って任に当たる余裕をお持ちの方は他にもいらっしゃることは心得ております」

「ほう、それでもまだ自らを推すと申されるか?」

「先に頂きました任により、私は朔夫人やそのお付の女官達とも知己を得ております故、蕃佑殿がこちらの意向を疑われても一旦は耳を傾けられましょう」

「そのまま貴様も璃有の下へ降る積りではあるまいな」

 皮肉気に割り込まれた覇淘の言葉に、すらすら口上を述べるように平淡な表情を形作っていた玉蘭の目元が、かすかに崩れる。一瞬で元に戻ったその瞳を、嵩萄は苛立ちと取り、嵩渓は悲しみと取り、覇煉は痛みと取り、そして覇淘は動揺と取った。

 玉蘭は首を廻らせ覇淘を見つめると、一層冷えた口調で言葉を返す。

「燕烈将軍は屡そのような戯れを申されるが、天地神明に懸け私が仕える主君は嵩宰相ただ一人。一生涯璃有殿の旗下に降る事は有り得ません」

「な……!」

「よくぞ申した可憐将軍。その言葉に嘘偽りは無いな?」

 覇淘が何事かを返して二人の口論に発展する前に、先程よりもはきとした通る声で嵩萄が玉蘭に言葉をかける。玉蘭は正面から主に相対し、恭しく礼で問に応じた。

 これにより発言の機会を失った覇淘は、苛立たしげに舌打ちをして玉蘭の横顔を睨みつける。

「では改めて問う。可憐将軍、そなたが伝令の役目を願い出たのは、挽回の他如何なる私心も無く状況を判断してのことか」

 嵩萄はぱちり、配の柄を机上において問いかけた。

 玉蘭は首を垂れたまま、

「いいえ」

と否定を返した。

 

 

 

 

 

 

 

戻 基 進 

 
  彼女を比較的早くから受容れてくれた人々でさえ、反応はそれぞれ。
素材提供元:LittleEden