シャラ

小さな音さえやけに響く静かな室内。

玉蘭は片耳から外した耳飾を万感の想いを篭めて見つめた後、鏡の前に置いた。

傍らの愛剣を腰に下げ、卓上の少量の荷を背に負う。それ以外は室内のものはそこに在ったまま。殆ど何一つ減ってはいない筈なのに、立ち上がり振り返ったその室内は何故か物寂しく感じられた。

「……感傷か」

 軽く首を振ると、残された片側の耳飾がシャラリと揺れる。

 会議では引き続き悶着が絶えなかったが、最終的に嵩萄が玉蘭の伝令への起用を認め、その場を押し切った。

 いいえと応えた後、玉蘭は、件の嵩萄から与えられた懸案に答えを出すにも、我が身を清廉としてからにしたいのだと奏上した。また、蕃佑らのもとに辿り着くまで、任を果たして帰城するまでの往復の早駈けで、己の裡にある迷いを払拭したいのだとも。

 嵩萄はその言葉に関心を示し、その他物資的な要因と併せ検討したうえで玉蘭に伝令の任を与えた。

 ひとえに玉蘭に信を示し、彼女の心情を慮ってのことなのであろう。

 最も警戒を露にし、最後まで彼女の起用に反対していた覇淘とはまさに対極。その時の様を思えば、自らの決心を悔やみたくもなるのだが。

 現実に女人としての玉蘭の心を捉えたのは、嵩萄ではなかった。

 臣として、主君の信頼に背くほど心苦しいことは無く、増してやこの局面にて彼女の自主性を重んじてくれるほどの期待を寄せてくれる、そんな主に背を向けて消え去ろうとは、心痛心労甚だしいことだ。

 けれど玉蘭は何よりも己が「翠玉蘭」であることを望んだ。そして「翠玉蘭」は、生きる為に女性としての幸せを捨てることを、決して是とはできない存在だった。

 

「玉蘭様!」

 厩に辿り着くと、彼女の近習を務める裁家三姉妹の次女・裁梅花が手綱を解いて待ち構えていた。

「梅花」

 驚き名を呼ぶと、彼女は芝居がかったようによよ、と泣き崩れる。

「お許しください玉蘭様。玉蘭様があの蕃佑殿を相手に単身挑まれようと聞き知って、取るものもとりあえず参上したのです」

「梅花、別に勝負しに行くわけではないのだから」

「いいえいいえ、解っております玉蘭様! 一命に代えても任務を果たそうというお心ッ梅花は供となれぬ己の未熟さを悔やんでおります」

 玉蘭が宥めても、梅花は愈々感極まって手巾を握りしめる始末。厩に居合わせた者達は、突然始まった愁嘆場にいたく興味を惹かれ、遠巻きにしながら二人の様を見物に掛かった。

 梅花は玉蘭の手をぎゅっと握り締めた。

「梅花?」

「玉蘭様、どうか御武運を! 私たち裁家三姉妹は玉蘭様のご無事をお祈り申し上げております」

「って、梅花っ!」

 涙を振り切って駆け出した近習を、追いかけようか迷ったが、玉蘭は唇を噛み締めて梅花から託された手綱をしかと握り締めた。

 梅花は追われることを望んではいない。

そうして、ひらり跨るは乗り慣れた愛馬の鞍。

「可憐将軍翠玉蘭、参ります!」

 高らかに宣言して、玉蘭は厩舎を後にした。

 

 急使の証である旗を立て、蒼の外套を纏い去り行く彼女を、見送る者があった。

 一人は裁桃果──裁梅花の妹であり玉蘭の近習の一人。彼女は手習いの娘のように楽器を小脇に抱え、日除けの傘と薄紗で顔を隠しながら、街路の一角で玉蘭の背中を見つめていた。

 一人は燕覇淘。玉蘭の執務室の窓から駈け去っていく騎影を見下ろし、苦々しげに口元を歪めている。彼の背後には、黙々と書類の整理を続ける裁桜華の姿があった。

「燕烈将軍、御用がお済みでしたら政務に戻られては如何ですか」

 慇懃無礼に言葉をかける彼女には振り返らず、覇淘は言葉を吐き出す。

「あの女は最早蔚には還るまい」

「まあ縁起でもない。玉蘭様は弁えたお方、猪武者のように闇雲に突撃など致しませんわ」

 桜華はさも心外だといわんばかりに眉を上げつつ、決済済みの束を麻紐で括りにかかる。

 覇淘の渋面は苦味を増す。

「貴様も可憐将軍の傍近くに仕えていたのなら解かるだろう。あの女はこのまま蔚を去る積りだ。貴様らも置いてな」

 すると桜華は深く溜息を吐いた。

「私にわかりますのは、何処かのお偉い将軍様が、子供のように意地を張って玉蘭様の名前を呼ばなくなったことぐらいですわ」

「何ッ」

「あら、燕烈将軍、何かお心当たりがおありですの?」

 ようやっと桜華を振り返った覇淘に、彼女はにっこりと笑いかける。この女の笑みが、平静から覇淘は苦手だった。

 桜華は書類の束を卓上に置くと、すくっと立ち上がって部屋の隅へと向かう。

 思わず半歩下がって場所を譲った覇淘は、それから慌てて気圧された自分を我に返らせた。

「今しばらくこちらにいらっしゃるお積りでしたら、お茶の一杯も差し上げねば玉蘭様に叱られてしまいますわね」

「いらぬ世話だ」

「そうは申されましても、玉蘭様がお帰りになりますまで留守を預かりますのが私の務め。燕烈将軍に礼を欠いたとあっては、玉蘭様が心苦しく思われましょう」

「……何を苛立っている」

 はた、ともてなしにかこつけて八つ当たりされていると気付いた覇淘は眉を顰めた。

「別に、何もございませんが?」

「嘘を申せ。あの女が離反することを恐れているのであれば、近習の立場として諌めるのもお前の役目ではないか。それを果たさず置いていかれたからと八つ当たりすることの何処に礼節がある」

「ですから私は玉蘭様を信じております。それでも敢えて私が八つ当たる理由を申し上げるとすれば、ある女官達の口さがない、嫉妬に満ち溢れたお喋りに端を発した出来事を看過した己と、庇おうともしなかった、玉蘭様の周囲の人々に対する苛立ちからでしょうね」

 結局苛立っているのではないか、とは思ったが、口にはしなかった。

 目の前にぬっと突き出されたお茶が、これでもかというほどに並々と注がれており、受け取ってしまった後に零さぬように啜るのが精一杯だった為でもある。また、彼女の言う「出来事」とやらが一体何を指すのかと、つい思考をめぐらせてしまったせいでもあった。

 桜華は横目で覇淘の様子を見遣ると、再び卓に戻って処理の続きを始めた。

 

 

 

 

 

戻 基 進 


 玉蘭の戦功を支えてきた面白三姉妹。梅・桃・桜の順に出で来ましたが、年齢順では桜・梅・桃です。
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