何か固いものが落ちる音で彼は目を覚ました。

 

「……!」

「……だよ!」

 

 そう遠くない場所から、かすかに聞こえるのは押し殺した声。内容はわからないが言い争っているようではある。

 薄暗い室内。

 簡素なベッドに擦り切れた毛布。

 自分が何故ここにいるのか、ガーラントは記憶に自信がない。

 

 絶対絶命の窮地、ダートウルフの群に囲まれたのは悪い夢だったのだろうか? そういえば頭が痛い。昨日は安酒を呷りすぎたのだろうか ──いや。

 ガーラントは鈍く痛む頭を必死に絞り、目に入る室内を分析する。

 

  壁にしつらえられた灯りは火が入っておらず、はっきり見取れるわけではないが、左手手前に小さなテーブルと、奥に飾り棚。目を上げて窓の方を確認すれば、 書き物机と頑丈な椅子。広くもなく狭くもない室内に、ベッドは一つだけ。足下に見える扉の隙間から明かりが漏れている。先ほどの物音は恐らくそちらだろ う。

 

 知らない場所だ。

 

 少なくとも一介の傭兵が押し込まれる宿舎ではない。

 どこかの民家、酒飲みが大勢で押し掛けたならプンプン漂っているはずの、いつもの臭いが感じられない。

 ではここは一体どこなのか?

 

「はいはい、わかったよ!」

 不意に、それまでは押し殺されていた声が大きくなった。

 少年と青年の境目、まだやや高い声の主はガーラントの考えていたより近くにいたのだろう。直後、足下にあった扉が開かれ、室内に光が 射し込む。

 その中央にはひょろりとしたシルエット。大して強くもないランプの火が、今のガーラントには眩しすぎる。相手の顔立ちを判別すること はできない。

 彼がしきりと瞬きをしていると、その誰かの気配が近付いてきた。

 底の柔らかい靴を履いているのか、足音は全くというほど聞こえない。

 

「何だ、もう気がついたのか」

 声の主はベッドの脇を通り過ぎ、窓際へ。目を凝らせば、書き物机にランプを置いて、人影は肩越しにガーラントを振り返る。

 微かな既視感。ガーラントは眉を寄せるが、すると顔全体がひきつるように痛む。

 

 その人物は部屋の中を歩いて、明かりを灯して回った。

 ガーラントは今までよりも激しく瞬き、この眩しさに目を慣らそうと努力する。

 

「あの怪我で良くもまあ生き延びたもんだよ」

 青年か少年かはこの部屋に居座るようだ。

 書き物机の所から椅子を引っ張り、ガーラントの頭近くに陣取る。

 光に慣れた目で見ても、彼は青年と少年の中間ぐらいの容姿をしていた。

 

「怪、我……?」

「覚えてないのかい? ダートウルフの巣窟に一人で乗り込むなんて、どんな間抜けかと思ったけどそこまでかよ」

 当初は僅かだった呆れの色が露骨に現れる。ガーラントは憮然として、

「悪かったな!」

一言言い返すと盛大に咳き込んだ。

 

 体中の至る所が悲鳴を上げる。

 喉はがらがら、腹も背中も焼けたように痛い。

 生理的に目尻からこぼれた涙は、皮膚にひどく染みた。

 

「何やってんだよ、あんた。自分がどれだけ怪我したかわかってんのか?」

 椅子の上の相手は白い目。何も言えず、ガーラントは彼を睨み返す。

  くすんだ茶色の髪に、そばかすの浮く頬。水底のように青緑色をした瞳には、吸い込まれそうな深みがある。肢体は華奢で骨ばって見えるが、無駄な肉が付いて いないだけであって、上腕はしなやかな筋肉で覆われている。戦いを知らない体つきではない。しかし傭兵仲間とも、たまに連絡を取り合う正騎士連中とも鍛え 方は異なっているようだ。

 いつもの癖で相手を分析したガーラントは、そこで最初の疑問に立ち返った。

 

 彼は誰で、ここはどこか?

 

 彼が特別非力だとは言わないが、血ダルマになって地べたに転がっていたガーラントを、ダートウルフの群からすくい上げて安全な場所に 運ぶことは生半ではない。いや、ダートウルフのことがなくとも、だ。

 ガーラントと彼の体格差。意識を失う寸前の、あの力の気配が理術だったとして、それでダートウルフが逃げ出したのだとしても、ガーラ ントより一回りは小柄な彼がガーラントを抱えて運ぶのは困難だ。

 彼には仲間がいる。それは先にドア向こうでしていた押し殺されたやりとりからも明白だったが、それならば何故、今は誰の声もしないの か。

 彼はガーラントが目覚めたことを誰に報告するでもなく、話し相手をつとめるだけだ。

 

「ったく、おかげでこっちはこんな所で足止めなんだぞ」

 彼はこれ見よがしに溜息を吐いた。

「なら、放って、おけば、良かった、だろう」

 ガーラントは、同じ失態を繰り返さぬよう、言葉を区切って言い返す。彼らがどんな見返りを求めてガーラントを救ったにせよ、一介の傭 兵にはろくな財産などない。一つだけ特筆すべき事はあったが、普通の行きずりの相手がそれを知るべくはないはずだ。

 だからこそわからないのだ。都合良く絶体絶命の場に居合わせた彼らが、何故ガーラントを助け出したのか。

 彼の顔はますます憮然となった。

 

「助かる命をこれ以上見逃したくないんだよ!」

「それは……悪かった」

 答えた彼の目は悲痛だった。

 胸を突かれ、ガーラントは睫を伏せる。

 キルサイドは長く情勢不安定で、内乱のない間にもオーサやロッソ、グラスフィールドなどに取り囲まれたこの土地では戦争の火種に事欠 かない。彼の見た目から考えれば、それこそ生まれたときから常に戦禍と隣合わせの生活を送ってきたのでもおかしくはない。

 対して、ガーラントは戦争が飯の種とも言われる傭兵だ。誇りを持って仕事をしていても、戦火に追われた犠牲者を目の前に、平然と居直 る気にはなれない。

 

「あんた、こんな所に何の用だったんだ?」

 彼は目を逸らして訊ねる。

 ガーラントは眉を顰めた。

「こんな所?」

 ガーラントの意識があるのは廃村までだ。そこから先、現在のこの場所まで連れてきたのは、むしろ彼らの仕業ではないか。

 あんな所と言われるならまだわかる。用が何かと言われれば情けない限りだが。

 

「此処は、何処なんだ?」

 

 

 

 

 ばっく ほーむ ねくすと

 

使用素材配布元:LittleEden