そして、それが起こったのは、ある種の必然だったのかもしれない。
けれどそれを思うのは、私の中でその全てに、区切りがついてから。
それはもう、朝からどんよりと曇った空の、蒸し暑い、最低に嫌な日曜日だった。
私は、宮部と二人で、こんな日に五教科六科目もの試験を受けなければならない身を嘆いていた。
そう。いわゆる、一つの、模擬試験の日。
胃のあたりにもやもやした気持ちの悪い感覚を受けながらも、今はどうにか理科。今日はもうこれで終わりだ。
私は、化学記号の渦に頭を悩ませながらも、腕の時計にちらちら目を走らせる。終了直後に公衆電話に走らなければなるまい。
新しい任を与えられて以来、定時連絡が義務づけられている。今日は模試が有るから、と断ってはおいたが、それでも四時半までには必ず連絡を入れると約束してしまったのだ。
私は、問題を読みながらも気が集中できていない自分に気付いていた。
そして、終了、二十分前。
突如として視界にぶれが生じた。
───この感覚はっ!
私は思わず立ち上がった。
椅子が思い切りよく跳ね上がり、皆がこちらに目を向ける。
試験監督の人達がこの騒音を注意しようとマイクに手をかける。しかし、そんなことにかまってはいられなかった。
この、いつのまにか充満している気配に、間違いはない。
「下がって!」
私は真正面にいた男に叫び、全開にしたカッターを投げつけた。
「おん!」
一時的に力を与えられた刃は、黒板に行き着く前に不自然な形で空に留まる。
やはり、いつのまにか入り込まれていたのだ。と、いうことは……
私はぎっと周囲を見回した。
「き、君は…何なんだ……?」
さっきの監視員がわなわなと声を震わせる。
「身を起こすな!」
ド─────ォウン……
直後、正面の黒板の上半分が、何者かによって吹き飛ばされた。
「!?」
室内が極度のパニックに襲われる。
チィッ私は舌打ちすると、一番まともそうに見えるのを捕まえて、逃げるよう指示した。
「いい? 西階段だけだよ! 他のはダメだ。私が最初に道開くからっ」
「で、でもっ」
おびえる相手に容赦せず、私は言葉を重ねた。他の者には、彼の後をついて行くように言い聞かせる。
私はブーツに忍ばせていた短刀を構えて、奴らの隙を窺った。
姿はなくても、その気配が教えてくれる。
「破っ!」
机を蹴って、宙に跳んだ。
「おん…ばざらやきしゃうん!」
一見何もない空間を斬りつけると、ずりっと空間はずれ、不定形の下位妖霊がその姿を現す。
「てぃっ」
私は短刀を翻してそいつをまっぷたつに斬り裂いた。背中の方の微かな悲鳴や気配から、未だに誰も動き出してないことが分かる。
「早くっ」
振り返り叫ぶと、彼らは余計におびえて身動きすらためらっているようだ。全く、世話がやける。
「私は正規のハンターだっ心配せずに言われたとおりにしろ!」
やけになりつつそう叫ぶと、皆の表情が一変した。
それはそうだ。ただ能力者であるのとハンターとして認められているのとでは大きく格が違ってくるのだから。
たとえ全てを機密事項にしてるとはいえ、こう現象が多発すればさまざまな憶測や噂話が生まれてくる。それらの中で共通して登場する「ハンター」と呼ばれる 人々は、あらゆる問題に対持し得る能力を有しており、それにも関わらず外見は至って普通の、子供から大人までさまざまな人物が存在するという。はっきり いってこれはあらゆるハンター達の特性を誇張表現しているものともとれ、恐らくはどこがの有力企業などが中心となってこの噂を集約させているものだろうと 思われた。だから私はその噂を利用したのに過ぎない。
「沖野さんっ……?」
私にそうした力があるとは知っていたはずの宮部も、さすがに驚愕の混じった声をあげた。
実際に切羽詰まって使わざるを得ない時を抜かして、私達がこの力について言及することはなかったからだろう。力を持つことを、肯定するのを───自らその力を示すことを望まないのだと、気付いていただろうから。
私は改めて、宮部に逃げるように指示をした。
「邪魔っさっさとどっか行けっ」
宮部を皮切りに、ようやく室内の人々が動き出す。
私は妖霊共を引きつけるために、わざと中途半端な攻撃を仕掛けた。
「はっ! ていっやっ」
基本的に馬鹿な下位妖霊どもは、こちらの思惑通りに私一人に注意を集中させた。幾らかでも力のある人間を取り込めば、その分奴らは強力になれる。中途半端な能力者は、だから奴らのいい餌なのだ。
「なうまくさんまんだばざらだんかん!」
私はひとまずまとめて片づけるために、奴らの中心部めがけて力をたたきつけた。
透明な光がはじけ、周辺の奴らは空に散った。
部屋の中が大体掃除されると、私はやっと逃げ出してくれた連中の背後に走り、次の妖霊に備える。
「沖野っ!」
通路に出ると、上階から降りてきた多田が叫んだ。私はすかさず短刀を足元に突きつける。出て気損ねた奴の醜悪な顔が、一瞬だけコンクリートの床に浮かび、消えた。
「上はどうなってる?」
「もう誰もいないはず」
壁や柱から次々と湧き出てくる奴らを相手にしながら、多田と言葉を交わす。
今のところ取り憑かれてる人間はいなさそうだ。しかし、西階段のあたりは、悪趣味なパニック映画さながらに混乱していた。
キ、キィィーッ
その時、甲高いブレーキ音が私の鼓膜を打った。
続けて、もはや耳慣れてしまったエンジン音が、騒然とした建造物にまで響きわたる。
「早くこちらへ!」
車のドアがバタンと閉まるのと一緒に、よく通る声が発せられた。《速水》さんの声だ。そして、
「これより、この周辺は、環境庁公害対策課H2の指揮下に入る。誘導に従い、速やかに避難しろ!」
高踏な男の声も、耳に届いた。
「《狙撃手》!」
私は踊り場から身を乗り出し、声の主に呼びかけた。沙霧要はすぐに顔をあげる。
「上に!」
そうだけ叫んで、私は再び階段を上り出す。
一般人の避難を優先させるために、とりあえずは降りてきたのであるが、あの独特の違和感はどうももっと上の方にあるらしい。《速水》さんが到着した以上、 誘導は任せてしまえるだろうし、「H2」の一言で、下の混乱は先ほどよりずっと、ましになってきている。それなら、私は上の状態を確かめに行かなければな らないだろう。
H2は、私たちの所属する組織「ハンターズホーム」の略称である。企業系の 振りまいたハンターの噂と、一連の事件も一つの環境問題であるという主張があいまって、環境庁内部に、専門の処理班がいるのではないかという新しい噂を形 成した。勿論、いくら探してみたって、環境庁にそんな組織はない。仁津穂のH2がそれらの噂を利用して、やむを得ず一般人の目前で活動しなければならなく なったときに環境庁の名前を使っているのだ。ハンターズホームは、これでも国連内部の組織なのである。まあ、一般人に取っては、さほど違いのない問題にな るだろうか。要は、我々が活動しているのが本当か否かということなのだから。「H2」の一言だけで混乱している一般人たちが安心できるのは、何も噂ばかり ではなく、事実に裏付けされた真実を、彼らが肌で感じとっているからに他ならない。
「後ろ、頼むよっ」
途中、すれ違った多田に言い、私はひたすら上を目指した。
おかしいのは、気配だけではない。そのことが私を不安にさせた。
妖霊どもは、ことごとく上階を目指して移動していた。余程の雑魚以外は、下に向かって逃げていく人間達を気にも止めていない。そんなことは、今までに一度もなかった。こんなにも無防備な人間など、その気になれば一人や二人、簡単に取り込んでしまえそうなのに。
おかげで一般人の保護を試みる我々の方は助かっているが、それにしても……
階段を上れば上るほど、障気とでも言うべき圧迫間が強まっていく。こんなに突然に、これほどの異常な空間が現れるなんて、初めてだ。階段を一つ上るだけで、息苦しさが増して行く。
「おん…あぼきゃ……」
私は流出して行きそうになる気力をとどめるために、最上階を目前にした踊り場で呼吸を整えた。
この空間を歪めている力場は、間違いようもなく、この、上にある。
ちらり、右手に構えた短刀に目をやる。あれほど戦っても、まだ刃こぼれ一つ、曇りさえも、ない。よし。
「はぁ─────っ」
ばたんっ
私は残り半階分を一気に上り詰め、勢いに任せて最上階の扉を開けた。
入り口付近の妖霊どもが、さっと振り返る、気配があった。
「────────!」
しかし、私は動くことができなかった。
私の目が捕らえているものはただ一つ。
美しくも妖しい光沢を放つ、それだけにまがまがしい、巨大な、白い繭……
言葉も出なかった。
見ているだけで、いつのまにかふらふらそれに引き込まれて行きそうになる。
私はぎりぎりで踏みとどまった。
この、繭は、いったい?
シャ────ァッ
呆然となる私の横あいから、真っ白い糸が吹き付けられる。大きく横跳びにそれをかわすと、室内全体が視界の中に入ってきた。
下で相手をしてきた連中の、軽く五倍近い力を持つ妖霊達が、それを守るかのように取り囲んでいる。
これを、どう処理するか。
「おん……しゅちり……」
私は、奴らとの距離を十分に保ちながら、ゆっくりと真言を唱え始めた。
背後からは、たったったっという規則正しい足音が、早いペースで近付いてくる。まーた、多田にいいトコ見せようとして、誰かさんが出ばって来たのに違いない。
けれど、その足音がこの階にたどり着く前に、既に私の力は行使された。奴らのもっとも密集している地点に向けて。
「───封、滅っ」
術の中心付近にいた数体の妖霊の姿が陽炎のようにゆらめいて、ふっと消え去った。替わりに、床に澄んだ紅の石が転がり落ちて、砕ける。乾いた音は、微かに鼓膜を振るわせるのみ。
始末された妖霊の数は、予定より随分と少なかった。
これならば、普段の戦闘で封殺しているときと違いないほど。気合いも十分に、大きく技をかけたのに、何故……?
「原因はあの巨大な繭だ」
背後で声がした。
淡々とした、狩人の声。いつのまにか彼も入ってきたらしい。
「そんぐらい誰だってわかるわ」
言い返しながら、もう一度印を結び直す。返答したのはただの嫌みだ。どうせなら弱点でも教えてくれりゃあいいのに。
「あの繭を支えている支柱を五つ解き放てば、この歪みも元に戻る」
《狙撃手》殿は、全く口調を変化させずにそう続けた。
話しながらも幾つもの弾丸が辺りに向けて乱射される。時折それらは小さな爆発を起こす。
「って《皓樹》さんでも教えてくれた訳?」
「なぜその名前が出てくる」
こちらも術を放ちながら私が言ってやったのは、無論、当てずっぽうだった。けれどその台詞は実に痛いところを突いていたらしく、私のすぐそばを通り抜けて行く弾丸に、格別の殺気が込められていた。その証拠に、掠りもしないのに、頬に赤い線が走る。
「危ないじゃないかっもう少しでこっち当たったよ!」
怒鳴りつけて、妖霊どもの中に切り込んで行くのは、そうした方がかえって安全な気がしたからだ。これだけ込み合ってれば、本気で私に当てようとしたって当たりっこない。
ざんっ。
短刀で、目の前の奴を凪ぎ払う。
べちょべちょげちゃげちゃした、低級妖霊と違って、もう少し形のしっかりしている下級妖霊は手ごたえもまともにある。だから、それだけ腕や手首に負担がかかるってわけなんだけど。
「破っ」
足を蹴りあげ、蹴り降ろす。
やっぱりこいつらの方がやり易い。当たった実感がないと、だんだん、きちんと倒したかどうかもわからなくなってくるのだ。
「……?」
不意に奴らとはまた違う気配を感じて、私は横に目を走らせた。
いつのまにか、繭のすぐ前にまで入り込んでいたのか。白い、白い壁が迫ってきている。
「ていっ」
ほとんど本能で、私は後方に跳び移った。
一瞬前まで私のいた位置に、純白の糸が、降り注ぐ。
そうして見れば、どういうことなのかは、すぐにわかった。
私が近付きすぎた訳ではない。そうじゃなくて。繭の方が成長していたのだ!
「何やってる!」
やや離れた位置から《狙撃手》の声がした。
そんなこと言われたって。
目の前にある繭は、明らかな意志の下に、私を飲み込もうとしていた。白い糸は触手のように的確に私の行方を追ってくる。私は術を放ってその追跡を逃れようとした。
──────私はその時、繭のことばかりに気を取られて忘れていたのだ。
「──ッ!!」
突然、強い衝撃が背中を直撃した。
私はなんだかよくわからないまま、宙に投げ出される。
目の前を絹の白い幕が遮って、そういえばまだかなりの数の妖霊どもがいたんだっていうことを思いだしたところで……
どう、しようもなく……
……意識が……
…………途切、れた。
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