目を覚ましたとき、私は深い暗闇の中にいた。頭の中がやけにぼんやりしていて、何があったのかがはっきり思い出せない。
まず第一に、ここはどこだ?
身を起こそうとして、自分の身体がかなり不安定なところにあることに気がついた。
何か、そう、例えば、雲の上に乗ったらこんな感じかなぁと言うような……
────雲の上!?
私は慌てて起きあがろうとした。
が、身体が、思うように、動かせない。
不吉なイメージ。
それでは…私は……
思考は、全くと言っていいほど停止していた。
自分がもう死んでいるのかもしれない、という考えが頭の中から離れない。
全く気味の悪いところだった。ねっとりとした、粘性のある空気。獄界にしてはなまぬるい方であろうが、それでも十分に恐怖感があった。
不快指数九十九パーセントの強烈な湿気と、腕や足を通して伝わってくる定期的な振動。自分が果たして息をしているのかどうかさえわからない状況で、私はぼんやりと上の方(おそらく)を眺めていた。
きらり。
何かが微かに光った。私の足の方で。
と、同時に、全身に伝わる振動が、より大きくなったのがわかる。全身から、力が抜けて行く。冷たい汗が前髪を湿らせ、両頬を、伝い落ちる。
「────つっ!」
ひりひりする感覚に、不意に頭がはっきりしてきた。
痛みがそんなところにあるのは、生身の身体であるためだ。なぜなら……そこに掠り傷のある理由を思い出すと同時に、気を失う寸前の出来事をも思い出す。
攻撃を避けようと跳び退いたところで、別の奴のをまともに受けて。
そ、れじゃあ、もしかして捕らえられて……?
身動きのとれない状況の説明は、他に思いつかない。
私はもう一度注意深く辺りを見回した。
先ほどに一瞬だけ光ったと思った何かは、点滅しながら近付いたり、遠ざかったりしている。その光を頼りに、私の手足に絡みついているものの正体を見きわめようとすると、やがて、太い綱のようなものが目にはいるようになった。
白くて、光沢がある。
「ちょっと待てぇ……確か、跳ね飛ばされて繭ん中につっこんだんだよなぁ?」
独りごちた声は、思った以上に低く、鼓膜に響いた。いつもの自分らしくない、しゃがれた声だった。その声に反応したのだろう。肢体にまとわりつく綱は、いよいよ激しく脈打ち始め、身体から生気を吸い取ろうとでもするかのようにぴったりと肌に密着して行った。
結論はすぐに出る。
間違いない。それの遥か延長線上にある「何か」は、私のエネルギーを養分としているのだ。
「冗談じゃない」
得体の知れないものの餌となって朽ち果てるなんて、全くの問題外だった。私は横目にまだ短刀を握っていることを確認してから、渾身の力を込めて両腕を引き寄せた。
「くっ……う」
血が逆流して、心臓は、早鐘のように打たれる。うるさいぐらい、心拍音が鼓膜を打つ。それで動かせたのはたったの十センチ程度でしかなかったけれど、反動で、手から滑り落ちそうになった短刀の側面が、うまい具合に綱に当たった。
じゅっ。
腐肉の焦げるような嫌な臭いとともに、右手の束縛が緩む。聖水で書いていた真言の、意外な効力。
私は短刀を握りなおし、即座にいましめを断ち切った。
ぎゅ……ん
重力の法則に従って、私の体は下方へと引っ張られて行く。全体力を使い果たしてしまっていた私は、体勢を変えるすべもなく、ふにゃふにゃした底面の上に落下した。
どさっ
「うっ」
顔面からもろにつっこみ、思わず間抜けなうめき声を上げる。もう、指一本だって動かせそうにない。せっかくいましめを断ち切っても、直にこの空間の主が降りてきて、食われてしまうんだろうか。
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多……」
諦めの極地になったせいか、頭の中には早くもお経が流れ込んできた。よくあるみたいに、今までの出来事が浮かんできたりすることはなかった。
それにしても、般若心経とはね。
─────「……神呪是大明呪是無等々呪遠離一切苦真実不虚故……」気が付くと、私は心経を声に出して呟いていた。
他のことは何も一切思い浮かばず、漢字の羅列だけが頭の中を支配している。
グゥン。
急速に底面が傾いだ。
顔をどうにか上げると、上の方で何かが苦しげに暴れているのがわかった。光る目を持った、しかし、それ以外には全くわからない何かが。
「……薩婆呵般若心経……」
三度目を唱える頃には、体が軽くなるのを感じていた。全身の疲労感が、心なしか減ったように思える。
「こ……これなら何とか……行けるかな」
私はそろそろと身を起こし、両手でしっかりと短刀を握りなおした。
「おん……あぼきゃびじゃやうんはった!」
滅多に使わない、観音レベルの真言を唱え、梵字を刻むように短刀を走らせる。
使用素材配布元:Cha Tee Tea