列車は、緩やかにホームに滑り込む。私は掛けてあったきつね色のダッフルコートを着込んで、背伸びして棚から荷物を降ろした。
アナウンスの後、ブザーが鳴り、ドアが開く。その向こうには、見慣れた人の姿がある。
「お帰りなさい、沖野さん」
言って、高科さんは当たり前のように私の荷物を奪い取った。
バーバリのコートを何気なくもびしっと着こなしているのが、相変わらずの彼らしい。でも。
「あ、どどうもすみませんっき、今日はお仕事じゃないんですかっ?」
本来平日であるはずの今日に、一般企業の秘書課の人間が、こんなことをしている暇があるのだろうか。
時刻は未だ、五時を少々回ったところなのである。
「今日は特別な予定もなかったので、早めに切り上げてまっすぐ来たんですよ。梁前君も、今日は大学の実習で遅くなるという話でしたので」
そうか。梁前さんもちゃんと大学生だったんだなぁ……納得。
駐車場のウィンダムに荷物をつめて、そこで何故か高科さんは顔をしかめた。そして、非常に言いづらそうな表情で、こちらを振り返る。
「済みません……少し待っていただけませんか? ちょっと、電話、掛けてきますので」
胸ポケットを押さえているところから察するに、ポケベルが入ったらしい。
それにしてもこの人は、自動車電話にポケベルに、とにかく忙しそうなお方である。おまけに、目の前に電話があるのに、わざわざ電話ボックスに走っていくのは、どういう訳なのだろう? 急に聞かれたくない仕事でも入ったのだろうか。
高科氏が少なくとも今の季節を覚えていてくれたので、私はウィンダムの後部座席で彼を待つことになった。(いつの間にか助手席は多田の定位置である)
すっかり暗くなった空に、街灯と、ビルのイルミネーションが明るく輝いている。燈恭や千波には較べるべくもないが、それでも十分に眩しい光だなと思っていたら、白いものがちらほら舞い降りて。
雪なんて……寒いはずだ。
積もったらやだな。
ぼんやり空を眺める。
その時。
ひゅうううっがつん。
大きな黒い塊が降って、コンクリートに衝突した。
黒くて、丸くて、ひらひらとしたものがいっぱいくっついている塊だった。
好奇心と言うよりか違和感を覚え、私はガラス越しにその物体を探す。
今のって……
「───!」
次の瞬間に、何がどうしたのか私には判らない。
ただ、やたらと甲高い、尾を引く悲鳴を上げたのが、道に立ち止まった誰かだったのか、それとも、私自身だったのか……
ぐちゃぐちゃにつぶれ、なおかつ正体の見て取れるそれは、はみ出た眼球をこちらに向けてニタリと笑みを浮かべている───人間の、頭部だった。
無造作にメットを放る。
振り返りざまにコインをはじいてやると、青緑ののっぺらぼうは、見事なまでに砕け散った。足元に、僅かな破片。
……破片? そうじゃない。
その物体は、地面を這って再び一つに集まろうとしているのだ。
私はもう一度、今度こそとどめを刺そうと身体を拈る。
──それは、そこにあるのは、私の顔ではなかった。違う、これは……
「《狙撃手》!」
誰か、知った声が、そう叫んだ。
「たぁっ」
残り数体を一気に葬り去ると、ねばねばとしたものが頭上から降りかかってきた。
急いで回避。けれど。
一番最後のを避けきれず、長い髪の先がどす黒い粘質で絡まった。
「厭だぁっ」
思わず情けない口調で呟くと、高科さんはなぐさめるように、頭に手をのせてくれた。
「すぐ落としに行けばどうにかなりますよ。心配しないで、晶子さん」
そして、私達は歩き始める。
ずっと走り詰めでへとへとだった。
みんな私の足の長さのことなんか、少しも考えてくれないから、一人だけ置いてきぼりだ。いい加減虚しくなってきたので、速度を落として歩き始めることにする。
街の中は静かだった。
当たり前か。
今、この区域は閉鎖されているのだから。
人気のないビルの谷間。明かりの消えたショウウィンドウの中の、マネキン達。ゲームセンターのシャッターさえ、今はしっかり降ろされている。
パチンコ屋の角のところで、ちらっと自分の姿が視界に入った。
ガラスの中に浮かぶのは、背の低い、子供じみた姿。
ぽん、と肩を叩く人がいた。
「いつまでかかっているんですか。早く帰りますよ、次弘君」
梁前さんが、呆れたように言った。
深く息を吸い込んで、私は台の上から真っ逆様に飛び降りた。
冷たい水飛沫が、痛いほど全身にぶつかってくる。一面、蒼の世界。
陽の光はゆらゆらと水中を踊っている。ゆっくりと足を動かしながら、私は更に深いところへと潜っていく。
アクアラングも何も付けていない、本当の素潜り。
人なつっこい魚達が好奇心一杯に、ほんの少しだけ離れたところからこちらを窺っている。私はその魚達に向かってにっこりと笑みを見せた。
ごぼごぼっ
はずみで口から漏れ出てしまうのは、空気。
うう、息、して来なきゃ。
私はバイバイと手を振ってから、一息に水面目指して上昇していった。
少しクセのある亜麻色の髪が、一瞬目の前をたゆたった。
水上に顔を出す。
「三田君凄いっ記録更新だよぉっ」
はしゃいだ声があがった。聞いたことのない声。けれど、私はまるで当たり前のようにそれが誰であるか知っていた。
「最近にない位澄んだ水ですよ。美弥さんも覗いてみませんか?」
晴れ晴れとした口調で呼びかける。
「あんまり無茶なことさせんなよ。見てるこっちが冷や冷やしちまう」
美弥さんの隣からは楽しげな声。
ボートの上には、少し幼い顔の高さん達が並んでいた。
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