「……さん、……きのさん。沖野さん!」
何度目かになって初めて、私は、呼ばれているのが自分であることに気が付いた。
はっとして顔を上げると、ガラスの向こうに心配そうな表情の高科氏が立っている。
「あ……れ……?」
たった今まで自分が何をしていたのか、咄嗟には思い出せずに頭が真っ白になる。
いつからこの車の中にいるのか、それさえも。
「大丈夫ですか? 出られますか?」
言われると、ああ、降りなきゃいけないのだなという気もして、私はこっくり頷いてドアのロックを外した。
やけに気遣わしげな視線の中、私は後部のドアをゆっくりと開く。
「よかった、どうしてしまったのかと心配していましたよ」
高科氏はほっとしたように言い、
「沖野さんに何かあると、高さんと晶子さん、両方から怒られてしまいますからね」
と付け加えた。
……高さんはともかく、多田はそれ程じゃないんじゃないかなぁ? 少なくとも、高科さんに対しては。
ぼんやりそんなことを考えたとき、ついでというように他愛のない疑問が頭の中を横切った。
これ、この車。高科氏ご自慢のレクサスES300、仁津穂名ウィンダム……なのに、何でドアを開けて起こそうとしなかったんだろう……?
「足元に気を付けて下さいね」
高科氏は支えるように手を差し出す。
……まあいいや。いつもの高科さんだ。
私は身を起こし、ウィンダムから降りようと体の向きを変えた。
「出るなっ沖野!!」
その時、怒鳴り声と共に、銀色に光る物体が私と高科氏との間を引き裂いた。
「───えっ!?」
私は大きく目を瞠った。
だってそこに、高科さんの姿はなかった。
代わりに、顔面に無数の亀裂の入った奇妙な男が、憤怒の形相で上を見上げて。
「えっ!?」
私はもう一度呟くように言った。
その男の顔には、何故か、見覚えがある気がしたのだ。
「なかなかしつこいお嬢さんだ」
その男は、ただでさえ不均衡な顔を歪めて、苦々しく独り言を言った。
何処からか空気の漏れるシュウシュウという雑音の混じったような、とても耳障りな声で。
「しつこくて結構。こんな処でお前を取り逃がしたら、末代までの恥とか言うものだわ」
その雑音に対したのは、かなりの怒りを孕んだ少女の台詞。通常よりもトーンの高い、凛とした多田の口調。高科さんに化けられたことが余程頭に来ているらしい。
私は今度こそ我に返った。
「なうまくさんまんだばざらだんせんだまかろしゃだそわたやうんたらたかんまん!」
瞬間的に護身刀を抜き取り、構える。唱えた真言に応じて、その刀身には不動明王呪が光を放つ。刃が男を捉えたのは、多田のくないとほぼ同時。
途端、足元のタイルががらがらと崩れ出す───歪んだ顔の男は、切り離された首だけで、落ちていく私達に向けて、また、ニタリと笑む。
目が覚めた。
全身がぐらぐらと揺れている錯覚に囚われつつ時計を見遣る──と、AM4:10頃。
机の上で、何かがかたかたダンスする音がする。覚醒した原因はこれかもしれないとベッドから起きあがろうとして、ようやく悟った。
地震、だったのだ。
床に気を配って私の机まで行くと、半開きのペンケースの中身が、殆どおもてに散歩している。
……そういえば、基礎解の課題、やってたんだっけ。
机上に置かれた某塾のテキストに、やっとそれを思い出す。途中で煮詰まって、結局半端で投げ出してしまったのである。
千波に行っている間は、とにかく早く仙蓼に戻ろうと必死で、後、講義の進度が若干違っていたせいもあって、ろくに勉強はできなかった。だからその分、死に そうになりながらノートの整理をしているのだが……単純な数列計算も、三ヶ月分もたまるとなると非常に苦痛になってしまう。
だからかもしれない、夢見が悪かったのは。
あんなグロい夢……
考え初めて気が付くと、それが一体どんな夢だったのか、思い出せない。怖い思いをしたということ以外は、全く。怖い思いぐらいなら日常茶飯事に味わっているというのに……
気分を害するなぁ……何で思い出せないんだろうか?
私はどっかりと机の前の椅子に座り込んだ。
継ぎ目の部分が大きく軋み、直後に背後で多田が寝返りを打つ気配がした。
「う……うん……」
微かに漏れる、寝惚けた声。
もしかしたら、低血圧の権化の多田様を起こしてしまったのか、と一瞬びくつき、すぐにそうではないことを知る。多田は更に布団を深く被ったに過ぎなかった。
私はほっと胸を撫で下ろした。
改めて机上のものを片付けて、そろそろと自分の寝床に戻ってしまうことにする。どうせ、こんな状態で頭をひねったって問題が解けるとも思えないし。まだ、もう一眠りするぐらいの時間はあるものね。
今度こそはいい夢見ようっと。
私は布団にしっかりとくるまった。
使用素材配布元:LittleEden