「あれ、沖野もう終わり?」
リュックを肩に掛けて教室を出ようとすると、鷹尾女史がそう声をかけてきた。
この後、宮部と彼女には燈恭方面有名私大向け英語、多田と神奈川さんには、塔北大向け数学の講義が入っている。どっちも、学校が封鎖される前から入ってた講義だから、当時塾通いしてなかった私にはムカンケイ。
私は頷いて、
「うん、そうだけど……嫌だな、傘ないや」
顔を蹙める。
4コマ目の途中から雪が降り始めてた。窓から空を見上げると、ちょっとやそっとでは止んでくれそうにはないほど、分厚い雲がどっしりと構えていらっしゃる。
「私持ってるけど、帰りこっちも笹本と合いガサだから貸せないしなぁ」
「何処かで待っていて下さるんなら、途中までお見送りがてら、入れて差し上げてもいいんですけど」
神奈川さんが頬に手を当てながら言うと、私より先に多田がそれを却下した。
「沖野ってば、五時までにダイエー行かなきゃなんないんじゃん」
「えっ?」
なんで?
「忘れるなよ、注文品……」
「ああっすぅっかり忘れてたっ」
私は慌ててリュックのポケットを探る。ぐしゃぐしゃに丸まった注文書は、見事ペンケースの下に潜り込んでいた。
額を押さえる多田。
「ま、いいけどね」
全然よくなさそうに呟く、多田の周辺が寒い。実は、多田にも熱量変化の力があるんじゃ……(ないない)
私は礼を言って、直ちにその場を立ち去ることにした。こういうのを、危険が危ないって言うんだよね。たはーっ
あんまり慌ててたもんだから、結局、傘、ないし。
外は全く素晴らしい大雪だった。
風がないのがせめてもの救いだけど、埃や塵の大量に入り混じっていることがわかるような、灰色の雪が、自転車に、頭に降り注ぐのは極めて気持ちが悪い。
二度寝して、その上二回共非常に嫌な夢だったせいで、うっかり天気予報を見そびれてしまった自分が情けない。こんな日に限って汚染濃度の高い雪だなんて、不運というしかないじゃないか。
私は自転車に乗ることもかなわずに、のそのそそいつを押しながら歩いている。直線では五分とかからない距離のはずが、諸々の事情により、三十分以上かけな いと辿り着けないようになっているというのも気に食わない。理由がわかってるから、立入禁止区域に入り込もうという考えも起きなくて。だから無性に腹が立 つ。
腹が立つといえば。
季節が季節なだけに、人の気も知らないで、道行く色とりどりの傘がクリスマスの予定なんか話してるのが聞こえてくるのだ。
私の脳裏には、自然、あの部屋の光景が浮かび上がる。
理由を付けて盛り上がる連中はいいだろう。少なくとも、去年までの私は、その中の一人だった。しかしながら。
もう二度と、その輪の中に加わることはないのだろうな。
加わりたいと、思わないんだろうな。
あれをすっかり、忘れてしまわない限りには。
「あれぇ? 沖野のねーちゃん」
どっぷり不機嫌に浸かりかけたところで、唐突に、はしゃいだような明るい声が飛び込んできた。
「おやまぁ」
首を巡らせつつ苦笑してしまったのは、視線の先に見慣れた小学生を見つけたからだった。
「今帰りなの?」
「う〜ん、まあ、そんなとこ。浅沼くんは?」
「たまに早く帰ったらさぁ、梁前さんにお使い頼まれちゃって」
いやだよなぁ、全く。
ってぐちぐち続けるかと思ったら、今回に限っては何も言わない。
「……どこまで?」
「うん? クリスロードのミスド。ドーナッツ買って来いって」
「……は?」
一度目は不審に思って。二回目は本当に怪訝そうに、聞き返してしまう。
だって、そりゃあんまりな……
「維原木行ってた政見さん達が戻ってくんだって」
「そっか。政見さんも片桐さんも、甘いもん好きだもんね……」
納得する。
片桐さんていうのが政見さんの今のパートナー。一緒の建物に生活してるってだけじゃなく、もともとウチのチームのメンバーと交流深い人達で。政見さんと以前仕事したことあるって言ったけど、それ、実は、彼が高さんとコンビ組んでるときのことだったし。
で、二人とも。私の戻ってくるのとほぼ入れ違いに、公用で維原木の方へ出掛けていたのだ。
別に太ってるわけじゃないし、むしろ痩せてる部類だってのに、彼らは甘いものが大得意で。ミスドのクルーラーはウチの棟の常備食物になっていた。
「うん。俺今ちょーどカード集めてたトコだからさ」
「今何だっけ? プレゼントって」
「えっとねー、スポーツタオル。弁当箱ってさぁ、俺のバアイ使いでないもんだからイマイチなんだけど、タオルとかって便利じゃん? 余分にあってもさ」
この、妙に生活臭い小学生の台詞は一体……まあこれで、不平不満を言わない理由はわかったけど。でも、なんだかなぁ……
「ところでさぁ」
ついつい溜息を吐いている私を不思議そうに見つめて、浅沼少年はこう訊ねてきた。
「沖野の姉ちゃん、傘は? もしかして、濡れるのがシュミってことないよね?」
「あーのーねぇ、いつ私が、そんなびしょ濡れになってたってーの!」
「えーとまず、俺達と初対面の時だろ、れから、塾のおくじょーだろ、笹本の姉ちゃん拾ったときでしょ、千波から帰ってきたときでしょ……ほら、四回も。今年の夏から冬にかけた間の、俺が知ってるだけでもこんなんだもん」
「う゛うっ……」
悔しいが、言い返せない。全部身に覚えあることだから(夢幻戦域1〜3参照)
……にしても。シュミってことはないんぢゃない? 全部不可抗力よ、不可抗力。小学生の悪戯とか、妖霊の仕業とか、とにかく、私のせいじゃない。
「やだなぁ、怖い顔なんてして。冗談だよ、冗談。あ、青だ、行こう、姉ちゃん」
陽気な口調で言った少年は、私の自転車のハンドルを引っ張って、トコトコと歩き出した。
全く、これではどちらが年上か、わからないんじゃないの?
「……高さんに言いつけてやるぅ」
しかし、そこでそう言ってしまう私は、更に大人げないのだろうけど。どーも最近、調子がおかしくていけない。
おかしいといえば。
「ねぇ、浅沼くん」
浅沼少年はぎくりとしてこちらを見た。
何か仕返しを恐れているか、身に覚えのありすぎる悪戯がばれたかという様子。
「な、何? 沖野の姉ちゃん……」
声がうわずってるぞ、おい。
まあ、いいか。
「最近、何かみんな様子がヘンじゃない? 高さんは朝遅いし、梁前さんはやたら滅多に早起きだし、おまけに私、ここんとこ殆ど瑞緒さんに会ってないんだけど。あんなに近くに住んでんのに」
「え? そうかなぁ……確かに、青木さんはここ何日か、俺と朝一緒ぐらいだけど、別に何にもないと思うんだけどなぁ……笹本の姉ちゃんトコ遊びに行くと、三回に一回は瑞緒姉ちゃんもいるし(って、そんなに何回も押し掛けてるのか、お前はっ)……でも、何で?」
「別 に、大したことじゃないんだけどさぁ……あと、高科さん。毎日会社とこっちの仕事とで凄いたてこんでるみたいだし。いくらウチのチームで唯一の社会人だか らって……それに、ウチの方じゃないけど、片桐さんと政見さんが二人だけ維原木なんか行くってのも、おかしいんじゃないの?」
「う〜ん、わかんないや。考えすぎなんじゃねぇ? 確か、政見さんの親戚が維原木いるとか聞いたことはあるけど。あの人達はこっちの方ではけっこうなキャリア組なんでしょ? 俺達考えてもしょーがねーことなんじゃねーの?」
浅沼くんの言ってることももっともで、私だって特に気にかけてなんていなかったことなんだから、当然の返答だと言えた。
だって、咄嗟に訊けなかったんだもの。
沙霧の様子がいつもと違うなんて、そんなこと。心配したなんて思われると癪だったから。
私が気に懸かったのは、今朝のあの男の、釈然としない態度だった。
「そんなに気になんだったら、誰かに聞いてみればいーじゃん」
浅沼くんはやたら年寄り臭い溜息を吐いて、「それでさあ」と続けた。
「沖野の姉ちゃん、これからダイエー行くんだよね?」
「うん、そうだけど? MR.SHADOWから品物もらってくるの」
「やっぱり。面白そうだからついていこーっと」
「ドーナツは?」
「どーせ帰りは七時頃でしょ? 時間あるじゃん」
勝手に決めつける小学生の台詞に、今度は私が息を吐く番だった。
MR.SHADOW は、ダイエーに配属されているH2の関係者で、pm3:00〜5:00の間にだけ支部の補給係を果たしている。それ以外の時間には、いくら顔を合わせたと ころで知らないフリをするし、そもそも、ほんの一握りの人間を除いて、誰も彼の素顔を知らないのだ。
そんな状況で補給がスムーズに行われるのは、定時の間であれば、こちらが何をしなくとも、いつの間にか向こうから近付いてくるから。それこそ、影みたいになって。だから。彼のことはみんなSHADOWって呼ぶってわけ。
店の入り口付近に自転車を停めて(違反じゃないのか?)私と浅沼少年は並んでダイエーに入った。
「何処にいるのかなぁ、今頃」
浅沼くんはこそっと言って、きょろきょろ辺りを見回す。その首をひっつかまえ、私は「きょろきょろするんじゃありませんっ」と、幼児を叱る母親のようなことを言う。
本屋の脇を抜けて、化粧品コーナー。UV−SHUTの商品が、ずらりと勢揃いしている。
ぬいぐるみやファンシーグッズの店。瑞緒さんの持ってるの(しのぶ様(笑))の縮小版のシャチのぬいぐるみを見つけ、二人で批評する。
階段を上って、二階へ。今のところ、SHADOW氏の気配はない。
ついついよそ見をしたくなるコーナーなんだよなぁ、ここって。
あ、凄くいいな、このスーツ……でも、私よりは多田向き、だよなぁ……かっちりとしたデザインが格好いい。
こっちは、神奈川さんタイプ、かな。あったか味のあるような、大人っぽい茶系のロンスカのスーツ。私が着たら、裾引きずりそうだなぁ……
案の定これだ。
「いらっしゃいませ、お客様。あちらで試着なさっては如何ですか?」
唐突に、背後からの声。
有無を言わさず私を導いていくその人こそが、他ならないSHADOW氏なのであった。
目立たない裏側の、鍵のかかっている扉の前に立つと、彼は一本の鍵を私に渡した。
「どうぞ、ごゆっくりお試し下さい。さあ坊や、大人しく待ってるんだよ」
やや前屈みになって、何喰わぬ顔で言ってのける。対する浅沼くんも、ただのついてきた子供を振る舞っている(……よく考えりゃあそのものじゃないか)
私は受け取ったキーで「試着室」のドアを開けた。
店の袋にカモフラージュされた包みが、一つ、二つ……慎重に、中身と注文票を確かめていく。階下で見たUV-SHUTのコーティングスプレーなども含まれ てる他、聖水で溶いた特殊な墨汁なんてものもある。携帯用の砥石に和紙、見つかったら一大事の、銃のカートリッジ(誰のものかはいうまでもない)等々。確 かに全部揃っている。
チェックを終えると、私は外で待っている二人にその旨を伝え、サイン済みの注文票を渡した。SHADOW氏はそれを受け取ると、更に外装を強化するために手提げの紙袋を出し、品物を一つにまとめてくれた。
これで、やりとりは終わりである。支払いは直ではなく、振り込み形式で行われている。
「有り難うございました」
白々しく彼は言って、私達はその場を去っていった。
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