「何してたわけ、浅沼君は」
エスカレーターで一階に戻る途中、ふと気になったので聞いてみる。特に話し声がしたわけでもないのに、少年は何だかとても楽しそうで。
「別にぃ。ほんのちょこっとカメラいじってただけ」
……十分な悪戯だろう。それを許す、SHADOW氏もSHADOW氏なのだが。
「あれ、沖野の姉ちゃん凄い疲れてる。なんで?」
「あーのーねーっ!」
頼むからもう、帰りはただの小学生でいてくれ……
心の声が届いたかどうか、元気に浅沼少年はミスドへ向かう。
「あっ姉ちゃんも待っててよ。一緒に帰ろう!」
はいはい……もう勝手にして頂戴。
返事の代わり、振り返った浅沼少年にひらひら手を振って見せ、場所を見繕って自転車を停める……と。
ぞわり。
背中の毛が逆立つような感覚がした。
濡れた新聞紙が、首筋にぺたりと貼り付く、イヤな気配。
私は慌てて後ろを見た。
こんな季節なのに、漂ってくる。なま暖かく湿気を含んだ風が、背後から。
ガチャンと2Fのガラスが砕けたのはその時だった。
右斜め前方、の、あれは……デンコードー!?
透明な破片の降り注ぐのは、通い慣れた電気屋の前だった。
「姉ちゃんっ!?」
ミスドから飛び出してきて叫ぶ浅沼少年に荷物を押しつけて、私は駆け出した。
早くも形成されようとしている人垣をかき分けて、店内へ飛び込む。
一瞬、びりっと全身が痺れ……軽く感電する。店の中は、電気系統が散々になっていた。
あちこちで派手にショートして、新品の製品も形無し。天井の蛍光灯も、おかしな音をたてて明滅を繰り返している。
人の姿は見えない。店員も客も、裏から逃げたのだといいけれど……
「……ひぃーっ」
押し殺したような悲鳴が、奥の方から聞こえた。
やっぱり、そうそう都合よく行かないらしい。
気配を消して陰から回り込むと、店員の格好をした女の人が、商品に埋まるように小さくなって、震えているのがわかった。まだ、なんとか無事みたいだ。
ほっと息を吐いて、私は彼女の前に姿を現した。
今にも気絶しそうな彼女は、それでも、人の姿を捉えると虚ろになりかけた瞳を輝かせ、蚊の鳴くような声で言った。
「───逃げて!」
私は彼女の元に駆け寄った。逃がさなければならないのは、勿論彼女の方だ。
「ダメ……来ないで……影が!」
しかし、彼女はかすかに首を横に振り、掠れたか細い声でそう言った後、全身を硬直させた。
カッと見開いた目の、瞳孔が針の先のように細い。
「───!?」
手遅れかっ!?
悔やみかけ、唇を噛んだ矢先、強い力が私を前方に引き寄せた。
ぐしゃ。
いきなりなことで、顔面から床に衝突する。星が目の前を飛び交う。
「何を……!?」
言いかけた言葉は、頭部を更に床に押しつけるという行為によって遮られる。人間の、手によって。
「だから逃げればよかったのよ、言われた通りに」
その女の声は、哀れむように私の耳に響く。一瞬前までの怯えなど、欠片も残さないで。
はめられた……?
「可哀相にねぇ。せっかく最期の忠告をしたってのに、聞いてもらえなかったなんて」
片膝を私の背中に落としながら、女は続けた。ぎっちり押さえつけられて、起きあがれなくなる。
けど、そんなことより……
最期の忠告!?
……れじゃあ、あの瞬間まで、彼女は……
「……てこと……!」
「あら、何かしら?」
そいつはぐい、と私の髪を引っ張った。
顎が無理矢理引き上げられ、自然、口は間抜けた形に開いてしまう。喉元は、無防備に表に晒されて。
「何てこと!」
私は意地になって繰り返した。横目を使ってちらりと相手の顔を見てやると、女の瞳は変わらず小さな点のままで、私の方を向いてもいない。焦点が定まらないまま、白目の中に、黒い目が浮かんでいるばかり。
「そう、そうなの……」
出し抜けに、女は私から両手足を離した。
私はまたもや床と仲良しになってしまう。
解放されたわけではないことは、その口調からもはっきりとわかった。それでも、体勢を立て直す機会が与えられたことは……
「───うっ!?」
身を起こそうとしたところで、だらしなくも私はへばりこんだ。
何かが、両足首をがっちり押さえているのだ。
そろり、そろりと、用心深く足元に顔を向ける。
すると、そこには何もなかった。ただ、女の影以外には。
影……影?
私はそれに引っかかりを覚えた。
冷静に考えてのことではなく。何か気になるという程度のものでしかなかったが。
「おやおや。逃げようったってそうはイカナイヨ」
喋る途中から、ノイズ混じりの声になる。女の様子は、刻々と変化していく──より完全に近い同化に向かって。
───しろめがくろいこどもくろめがしろい
不意に、最近桂子ちゃんに借りたマンガの一場面が頭に浮かんだ。
私の目の前で、女の髪は真っ白なものへと変容した。
笑みを浮かべる唇は色褪せ、皮膚は煤けたように薄汚く黒ずんでいく。数々の異変を目の当たりにしてきた私にも、それはあまりにも異様な光景であった。
そして、丁度ネガフィルムのように白と黒の逆転した瞳は、そこで初めて意志を得たようにこちらに向けられたのだ。
───ましろなやみのむこうでみてるよ
だれをだれをだれをダレ……
ぼくをぼくをぼくをボクヲ……
「ダイジョウブ、ラクニイカセテアゲルヨ」
マンガ通りに女は言い、何かがどろりと私の全身を覆っていった。
生暖かな、それでいて、保冷材の中身を思わせるような感触の、黒い液体───影。
体中を浸食していこうとする感覚が、他方にはあった。痛点を上手に避けて、細胞内部にさえ浸透して行き……女の白目が、一瞬、油断しきって脇へ逸れた。
───今だっ!
「…………せんだ……そわたやうんたらたかんまん!」
私はどさくさ紛れに手前に引き寄せた、金属の細い棒を、私自身の影に突き立てた。
バチバチィッ
勢いよく火花が飛び散り、そいつは見事に燃焼する。
ぜいぜい……うわっちぃっ!!
ちょっと強すぎた火が危うく服にまで火事を広げようとして、私は慌てて後方へと飛びすさった。
「ナニヲ……!」
叫ぶあたり、相手は私の正体に気付いていなかったらしい。
……それにしても、改めて見ると尚更不気味だ。
黒目の中に浮かんだ白目は、驚愕を露わに、私と、床に突き刺さったきりの棒とを凝視する。どう考えても、世間一般の人間のできることではない。コンクリートに、タイル張りの床面。
私は足元から短刀を引き抜く。(ブーツの内側に忍ばせている。冬用装備)
「確かめなかったのが、互いの不注意よねぇ?」
静止したくない姿の、相手との距離を測りながら、ゆっくりとした動作で得物を構える。一歩間違えれば、感電だ。
白髪の妖霊は、鋭い爪を伸ばし、こちらの様子を窺っている。
じりっじりと間合いをつめる。ただでさえ狭い店のレイアウトで、家電製品を扱っているときたら、格闘戦に入るしかない。
相手を、間違いなく仕留めようと思うなら。
「破っ!」
ほぼ同時に我々は飛び出し、結果、妖霊の片手と短刀とがかっちり組み合うこととなる。ヤツのあまった片腕は、当然こちらに向けて振り下ろされた。
「くぅぅっ」
辛うじて、左腕でそいつをはじく。否、押さえる。
ヤツの手の、短刀に触れた部分からは、青黒い色をした液体がじわり滲み出てくる。しかし、それしきのことで妖霊は動じたりはしない。却って両腕に力を込め、のしかかってくるように体重をかける。ウェーブのかかった光沢のない白い髪が、顔や首筋に覆い被さる。
「───!?」
故意に私は全身の力を緩めた。
均衡をとれず、妖霊は前のめりになる。そこに。
上向きの力を加えてやれば、十分なことだった。屋外であればまっすぐに飛ばされ、体制を整えられるところだが、妖霊は、私の真後ろの壁に勢いよく激突した。そして私は、振り向きざまに短刀を閃かせればよかった。
ざっくりどころではない。肋骨を削るほどの傷が、妖霊の胸部を横に引き裂いた。
「おん…………うん!」
背中を仰け反らせて剥き出しになった傷口に向け、気の塊を叩き込む。と、ばきっと嫌な音がして、今度は前にかがみ込み、うなり声をあげる。
「グゥゥ……rrフッゴフッ……」
数瞬の間を置いて、その妖霊はべちゃりと倒れ伏した。
青黒い血は周辺に広がり、店内を絶望的にする異臭が、それと共に充満し始めた。
使用素材配布元:LittleEden