左側から吹いてくる、冷たく、潮気を含んだ風が鼻孔をくすぐる。波の音が意外と近くて、海岸に出たのがわかった。けれど、足元は固い。
砂地ではないみたいだ。
『着いたよ、オキノ』
アキムに呼びかけられて、私は恐る恐る目を開ける。
―――深い青空。紅葉を迎えた木々。
コンクリートで補強された傾斜、埃にまみれたガードレール、その向こうに広がる街並み。
どれをとっても、さっきまで居た自分の世界と何ら変わりのないものばかり。本当に、ここは異世界、なのだろうか……？
「あ、アキム……？」
長身のトラジェリアンの姿は見て取れない。私はきょろきょろ辺りを見回した。
聞きたいことは、いっぱいあるのに……
『オキノ、こっちだよ』
声は足元から聞こえた。
慌てて下を向く―――と、目があった。赤毛の仔猫の、黄金色の瞳。
「―――!?」
『そんなに驚かないでほしいな。リーハから、聞いていたんだろう？』
仔猫は紛れもないアキムの声でそう喋る。
そ、それはたしかにっっ九尾の狐になったとか、そーいうの、聞いた気はする、けど。その後から、色々ごたごたしていたわけだし。
『オキノ……？』
答えを返さずあたふたしている私に、アキムは怪訝そうに声をかけてくる。
私は慌てて言葉を探した。
「アキ……ム…………あっえ、えっとっっ此処って？」
『僕らはユージェリアと呼んでいる―――そこの、ニホンという国の、首都に近い街だよ』
「ニ、ホ、ン……？」
『そう。君達の文字で書くなら、太陽の、日の、もとって書く』
「……日本、か……」
まだ何となく今のアキムの姿に違和感を抱きつつ、此処が、私の知らない世界なのだと再認識する。
そういえば、空気が、綺麗……？
どことなく刺々しい感のある仙蓼の、エスジェリアの空気に較べて、このあたりの風は、冷気や潮気はあるものの、随分と穏やかであるような気がする。
『君と一緒だったエスジェリアンは、向こうの街のあたりに落ちたはずだよ』
アキムは器用に前足でそう指し示した。
首都近郊というだけあってか、わりと規模の大きそうな街並み。う〜ん、探すのって、酷く大変そうだ……
私が嘆息したとき、耳慣れた低音が、背後から響いてきた。
バイクのエンジン音、それも、４００ccサイズのっ!?
私は思わず振り返った。
音は、もうそのバイクが目視距離に到達していることを告げている。
果たして、わりと急なカーブの向こう側から姿を現したのは……濃紺のバイク。メットも、同じ、気がした。
『オキノッ!?』
アキムが悲鳴に近い声を上げた。跳躍するために力を溜めているのが視界の隅に入って……バイクは、目前に迫っている。
「―――!!!!!」
笛吹きケトルが数千個一斉に鳴り出したみたいに甲高い音でタイヤが滑り、バイクは私から数十�僂販イ譴討覆ぅ�リギリのところを通って左に大きく逸れた。
アスファルトに、真っ黒なタイヤの跡。
私が動かなかったわけは、恐ろしさに身が竦んだからではなかった。新幹線やジェットコースターが迫ってきたわけでもあるまいし、本当にギリギリの瞬間に避ける自信もあった。けれど、私をそこに押しとどめたものは……
―――違う。
冷や汗をかいてフルフェイスのメットを外す人物の姿に、私は改めてそう思った。
その相手は、沙霧要などではなかった。多分、年の頃はさほど違いはないのだろうが、沙霧よりもずっと短い髪と、きつくはあっても冷たくはない目をしていた。
宣告の異常接近の時、そのバイクが実は全然違うフォルムをしたものであることに気が付いて、それで、私は落胆していたのだ。
[……っっぶねぇじゃねーかっ!! 道の真ん中ぼやぼやつっ立ってんじゃねぇよっ！]
ぴくりとも動かない私に、彼は振り向いて罵声を浴びせた。間が空いていたのは、きっと怒りのあまり言葉も出なかったのだろう。
当たり前のことだったけれど、声も全く異なっていて、沙霧のあの無機質、且つ、高圧的な声とは対称的に、活きている声だと思った。
……そ、だよね……こんな簡単に、見つかるわけ、ないもんね。大体、出てくる方向逆じゃないか…………
私があまりにも暗い顔をしていたからだろうか。彼はバイクをひいて、怪訝そうな顔つきになって近付いてきた。
［おい、ちょっと……お前……］
“もしもーし”と、私の目の前で手を上下に振る。ちょっと、そーゆーの、リアクションに困るかも……でも、反応なかったらこの人が困るのか……？
と、そこまで考えて、私はすぐ目の前にいるこの異世界人が、仁津穂人達と同じ容姿で、あまつさえ、話す言葉もほぼ変わりないものであるということに気付いた。
これは、一体……？
［おいっ!!］
案の定、硬直している（ように見える）私の肩をぐい、と掴んで、彼は一段と大きな声で呼びかけてきた。
『オキノッ』
見かねていたのか、アキムも声を上げる。
「あ、アキムッ!?」
私は素っ頓狂な声を上げて足元を見下ろした。
人語を解するどころか、喋ってしまう猫が受け入れられる世界だとは、とっても思えない。そう、今アキムは、仔猫の姿をしていて。
けれど彼は、アキムには何の不信感も抱かず、代わりに大きく肩を落とした。曰く。
［お前なぁ……我に返ってまず猫の心配か……？ 普通もっと他あるだろ、いろいろ］
エッ猫!? あ、いや、まぁそうだけど……
するとアキムはくすくす笑って言った。
『この姿だと、ボクの言葉は次元移動能力者にしか通じないんだよ。他の連中には、猫の鳴き声にしか聞こえないんだ』
何だ、それならそうと……
安堵の溜息を吐く私に、彼は何度目かの［おいっ］を言う。
「あっ……ごめんなさい」
彼の存在を失念しかけていた私は、漸くにして答えるに至る。
［ったく、お前なぁ……そうやって猫にばっか気ぃ取られてっから、道のど真ん中につっ立ってんのにも気がつかねぇんだよ］
「……はあ……」
本当は違うんだけど、とりあえず頭を下げる。そうしとけば、相手の怒りだか脱力だか呆れだかも幾らかおさまるんだろうし……それに、こんなに似てる格好してるんだったら、大した誤魔化し無しで色々ものを訊ねられそうだ……あの男に、関したことを。
［マジに解ってんのか？］
限りなく胡散臭気な表情で、彼は私を見つめる。
「ええと……ごめんなさい、あの…………」
わざとそこで言葉を切る。
するするっと赤毛の仔猫が、背中のリュックを経由して私の肩に乗る。殆ど重みを感じさせないのは、アキムが体重をコントロールしてくれているからなのだろう。
“どうするのか”と問いかける、黄金色の、一対の瞳。私は殊勝そうなフリをして、じっと、相手の出方を見守っている。
彼は無言でその先を促した。
「あの、知り合いのバイクに、似て見えたから……」
［……知り合い？ 分かってるとは思うが、濃紺のインパルスが一体どの位巷に溢れてると思う？］
「えっと……」
“インパルス”？ それってば、もしかしなくとも、「IMPULSE」って書く、あのインパルス……だよ、ね……？
彼に言われて車体を凝視すると、そこにはご丁寧にも、スズキのロゴとIMPULSEの文字がプリントされていた。でも……何故に、全く同じタイプのバイクが、ウチと此処と、両方に存在している……？ これは一体どういう……
［ったくしょーがねぇな。それに大体なぁったとえ俺じゃなくその知り合いの誰かが乗ってたにしてもっ真っ正面のあんなトコに突っ立ってられたら跳ねちまうだろうが!!］
より一層呆れた声で、彼は言った。
「でも……」
［でも？］
「避けられると思ったから……」
“私が”である、勿論。しかし、その方の落とし具合を鑑みるに、彼は“バイクの方が”と思っているようだ。
［……その知り合いとやらに同情するぜ、オレは……寿命が縮むかと思ったんだぞ、全く！］
「ごめんなさい」
［お前なぁ……そんなんで、よく今まで生きてこられたもんだ］
極めてしみじみとした口調。最早、呆れるのを通り越して感心している。
彼の意図はともかくとして、後半部分には同感だ。今をもって五体満足な自分が、ちょっと信じられない。
『オキノ、話の続きはいいのかい？』
釘を刺されてしまった。
分かってる……こんな愚にも付かないやりとりをする間にも、沙霧は……早く、話をつけなければ。
「あのっ違うんですっ！ そうじゃなくてっ……そのぐらいやらないと、気付いてくれないと思って……私が此処にいるなんて、考えてもみないはずだから……」
［何だそりゃあ……］
「行方不明、だったんです。それで、このあたりにいることだけ判って……」
［…………冗談に付き合ってる暇はないな］
ううっ、やはりそうくるか……普通信じないだろうな、んなハナシ。
だけど、それを信じさせることが最初の私の仕事なのだろう。これができなかったら、この異世界の中、単身であの男を捜さなければいけないことになる……タイムリミットだって、そう、先ではないのに。
私はあまりに予想通り過ぎる反応に落ち込みかけていた気を引き締めて、彼に切り返した。
「こんな道端で、初対面の人にそんな冗談言って、私に何の得があります？」
［お前なぁ……］
「だから、あの……ＣＢ４００に乗って、赤いダウンジャケット着た人、知りませんか!? あの、見かけたっていうだけでもいいんです……」
［ＣＢ４００って……HONDAの!? どうしてそれをインパルスと間違えれるんだ……］
彼は何よりそれに驚異を覚えたらしかった。
はい、どーせ……私はそんなに単車に詳しくありませんよ。
「と、突然だったから……」
そう答えると、彼はしばしの間腕組みをして、考え込むポーズを取る。呆れているのか、思いだそうとしてくれているのかは不明。
ややあって、彼は記憶にないと言った。
［―――そんなに、切羽詰まってるのか？］
「えっ？」
言われてみて初めて、頬を何か冷たい感触が流れていったことを知る。でも何故？
すぐに見つけ出すには、あまりにもこの世界を知らなさすぎるのに。
未だここに着いたばかりで、偶然を当てにしていたわけでは、ないはずなのに。
『オキノ……』
肩の上でアキムが呟く。私はアキムの乗っていない側の手で、両頬を伝う液体を拭った。
「大丈夫、少なくとも、まだ生きてるはずだもんね」
自分と、アキムにだけ聞こえるようにそう言うと、彼は一段と盛大な溜息を吐いた。
［しゃーねぇな……跳ね飛ばしかけたのも何かの縁だし。見かけたら教えてやるよ―――連絡先は？］
「えっ？」
［連絡先だって。んな目立つカッコした奴なら、ダチ関係当たれば何かわかんだろ］
「ええっ……と……」
言われて、非常に困ってしまった。
地元の人間にそう言ってもらえるのは嬉しいけれど、まさか、エスジェリアの携帯とかポケベルとかが通じるはずもないし…………そういえばどうしよう？
［おいおい……お前そんなんで本当に人捜しなんてできんのかよ］
「あの……駅前のあたりに伝言板みたいなのありませんか？ そういうところにメッセージ残してもらえれば」
［ああ、西口んところな。で、そいつの名前は？］
あ、よかった……あるんだな。でも、どうやら先に駅を見つけなきゃいけないってことか。
少しほっとして、それから考えてしまう。
駅の伝言板……以前瑞緒さんとか笹本達との待ち合わせに使っていたポイントだから、咄嗟に出てきた名前。
「ええと……“沙霧”です」
［“狭霧”……？ 随分変わった……って、まさかそれって女なんじゃ……］
少し迷ってから本名を教えると、彼は首を捻ってしまう。
やっぱり、こっちの世界でも滅多にない姓であるらしい。エスジェリアの初対面でよくあるみたいに、彼もまた、それを姓じゃなくて名の方だと思ったようだ。
いくら何でも、男女の区別ぐらいある程度の距離でも判るってねぇ。
私は首を横に振る。
「フルネームで言えば“沙霧要”今１７歳の、歴とした男です」
［沙霧、要……１７ってことは、まだ高校……２年か３年？］
「高３です」
答えて、また驚く。そんな教育システムまで似通っているのか、この世界は……
［なる……いなくなって、騒がれるわけだ。で、お前はそいつの……？ 妹か、それとも……］
「え……と、こ、後輩っていうか、その……あんな兄持ちたくないけど、でも……」
［何だよそりゃ］
あたー、此処まで似てくると却って説明できない。う〜ん、本当の事言うわけにもいかないとなると、どうなるんだ？ 沙霧と私の繋がりって。
「え〜と……」
［わーった、なんか複雑なんだな……いーからそれじゃ、誰宛に、メッセージ残せばいいんだ？］
「えっと、“沖野”です。“沖野深雪”……２、３日中はこっちにいると思いますので……」
［分かった“オキノ”な…………俺は松井浩史。すぐそこの、秋北高校の３年……“沙霧”って奴と同じって事だな］
彼―――松井さんは、そう言うと手にしたままだったメットを被った。
［猫ばっかに気ぃ取られて、また妙なコトするんじゃないぞ］
それから、何か独り言呟いて……そしてまた普通の大きさの声で［早く見つかるといいな］と言ってくれた。
「有り難うございます！」
頭を下げると、松井さんはインパルスのエンジンをかけ、軽く片手をあげる。
つい先刻までとは違って、私は幸先のいい始まりだと思い始めていた。
初めて遭遇したユージェリア人が、思いの外親切そうな人だったから。
緩いカーブを曲がり、小さくなるテールランプを見送りながら、私もまた彼と同じ方向に進路を定めなおした。
ふわり、アキムは道路に飛び降り、促すように私を見上げた。
『僕らも急ごう』
「わかってる」
私達は歩き始めた。
未知の世界に対する不安は、もう大分薄らいでいた。僅かながらも、事前にリーハに教えられてきた知識が、ゆっくりと脳裏に甦りだして―――此処は、私達の暮らす世界と殆ど変わりない。極めて、近い存在感を持つ世界。それは、こういう、こと……
それは最大の利点だし欠点で、そのことさえ忘れなければきっと大丈夫。どうにか、なる。
雲の間から、柔らかな光が射すのが見えた。
使用素材配布元：LittleEden