急に明るくなったので、夜が訪れたのを知った。


 電気の紐を引いたのは松井さんで、しぱしぱする目を上げると、カーテンはとっくにしまっていた。

 伊藤さんや、その友達の気配はない、多分。


[あいつらなら外だぜ。メシ買いに行った]

 松井さんは肩を竦めて、親指で外を指したんだと思う。ずっと同じ姿勢を保ってた私はすぐに振り返ることもできなくて、その間に松井さんは奥の方へ移動してしまった。


 明るくなった部屋で、改めて沙霧を見る。

 土気色の唇、いつも以上に青白い肌は艶もなく、整った造作のせいで造りかけの精緻な人形のようにさえ見える。

 呼吸はごく浅く、注視しなければ胸が上下してるのもわからない。上体は包帯塗れで、腰から下は松井さん達が履き替えさせてくれた んだろう黒のスウェット。その裾からも覗く包帯の白。あれほど鮮やかだった赤は覆い隠されて、露出してる頬や腕なんかの打撲痕は青黒い痣に変わっていた。


 血が、出ないのは、傷口が塞がったせい? それとも……


 パコン

「──っ!」

 丸めた雑誌で頭を叩くことで私の注意を引いた松井さんは、あったかい飲み物の入ったマグカップを目の前に突き出してくる。


[ぶつぶつ言いっぱなしだと喉が嗄れるぞ]

「……つい、さん……」

 忠告を裏付けるように呼ぶ声が掠れた。

 いわんこっちゃない、と松井さんは呆れた顔でこちらを見下ろしてくる──沙霧ならこんな時。思い描こうとして、失敗する。

 だって沙霧はこんなことしない。こんな時に差し入れてくれるのは決まって高科さんとか三田くんとか、サポート役をしてくれる人達で。沙霧は離れたところで妖霊の動きを警戒してるか、背中合わせで全然違う方向を向いているか。突っ掛かっていくのはいつも、私の方だった。

 本当、こんなんで良くパートナーを続けてられたものだ。


 ずずっと行儀悪くマグカップの中味──はちみつ入りホットミルクをすする。ホッとする温かさが今はやけに眼に染みた。


 それからほどなく戻ってきた伊藤さん達は、ご飯の他にあるものを持ってきた。


[いやぁ、なんかすげえ有様だったぜ。下手すりゃ明日は休校かもな]

[動物の毛とか飛び散ってて気持ち悪かったぞ、動物虐待っつーか、なんなんだ、アレ?]

「──!」

 苦笑混じりの伊藤さん、そのオトモダチの苦虫を噛み潰したような言い様に、私は思わず真言を止めて振り返った。

[お?!]

「まさか校舎に入ったんですか?!」

 そんな危険な!! ていうか結界……

[気になったんで、ついでにな。二年の教室辺りがズタボロんなってたが何もいなかったぞ]

「何も?」

[あぁ。収穫は机の残骸の上にコレがあったくらいだな]

「!」

 伊藤さんが見せてくれたのは、沙霧のメットだった。そういえば、いつの間にかどこかにやってしまっていた。今まですっかり忘れていた。

 手渡されたそれを検分しても、余計なものは憑いてないようだったので沙霧の枕元に置いた。

 つやつやした表面に、歪んだ横顔が映り込む。凸レンズ的に強調された長い睫の下は眼下の窪みが強調されて見えて、慌ててメットの向きを変えた。


「……ありがとうございます」

 それから、礼を言い忘れていたことに気付いてぼそぼそと呟いた。

 ぽん、と伊藤さんの手が私の頭に載せられる。

[少しは落ち着いたか?]

 じんわりとした他人の熱。

 全く別人、同質存在じゃないのもほぼ確実(だって容姿が全然違ってる)なのにその力強さと温かさには高さんを連想させられた。


[動物の毛……まさか、な]

[何かあんのか?]

[コイツと最初に会ったときは猫連れだったんだよ]

[はー。使い魔みたいなもんか]

[そこまで知るかよ。ただやたらそっちばっか気にしてっから次こそ事故るんじゃねぇかって呆れたの思い出しただけだ]

[じゃあお嬢ちゃんも気が気じゃないだろうな。探してた野郎はこのザマで、オトモダチの猫ちゃんは行方不明……まっち、支えてやれよ]

[縁起でもねぇ言い方すんな! コイツの連れてた猫だぞ⁈ フツーの動物同士の喧嘩と同じじゃなくて当然だろーが!そのうちひょっこり顔出すんだよ!]

[あんたがそんなに熱くなんなよ。治道も、言い方考えろ。俺らが見たのは単なる跡だ、何があったのかなんてわかってねぇ]

[み、むぅ……スマン、嬢ちゃん]

[……悪ぃ。あと言っとくがそいつお前らのイッコ上だから]

[[は⁈]]

 驚いたように丸くした伊藤さんの目と、視線がかち合った。


 幼く見えることは今更だから、憤慨するのも面倒で(そもそもこの人たちが老けすぎなんだ)、ただ首の動きと瞬きで肯定を示す。

 気まずそうに、伊藤さんは頬を歪めた。それからそろそろと、私の頭に載せてた手を持ち上げ、降参のポーズ。

[そいつぁ、悪かった]

 私はまた瞬きで「気にしてない」を伝える。

 巻き込んでしまった彼らはとてもよくしてくれてる。多少年下に見られた事ぐらい──


[なかなか手強いみたいだな]

[頑張れよ、松井サン]


 彼らのやり取りはまだ続いていたけれど、私はまた沙霧の方に意識を戻した。


 相変わらずの土気色の中で、眉間や瞼が時折ぴくぴく動くのが命のつながってる証明。呼吸は浅くて胸が上下してるのを見分けるのは依然困難。いたずらに、時間だけが過ぎていく虚無感。




 更に夜は深まっていた。



 窓の外の気配に私が気付くのと、どんっと何かがぶつかる音はほぼ同時。

 警戒するように顔を見合わせた三人は、次に私に目を向けた。


 そこにあったのは待ち望んでいた気配──私が微かに頷くと、代表して松井さんがガラッとカーテンを引き開けた。


[うおっ?]

[マジで猫かよ……このアパートペット禁止なんだがなぁ]

[そんなこと言ってる場合か! 開けるぞ]

 三様の発言の後で、クレセント錠を開けた松井さんはガラス窓をスライドさせる。その隙間からするりと身を滑らせる赤毛の仔猫。伊藤さんやそのお友達は腫れものを伺うような目でアキムを追った。


『……もう大丈夫だよ。結界は維持されるから、この中なら悪化することもない。傷の処置もできているし、こうして休ませていれば自然と回復していくよ』

 沙霧の状態を確かめたアキムは、穏やかに笑ってそう告げた。

 そう言うアキムの全身も処置したとはいえ傷だらけのボロボロで、その後ろにはもっとぼろぼろのナルドが控えている。

 ナルド──と言って良いのかな。寧ろ今は本来の名、イルダナと呼ぶ方がふさわしいのかもしれない。


 アキムとの攻防の結果エスジェリアまで舞い戻ったナルドは、どうやらそこで笹本に遭遇したらしい。アキムが前に話していた通り笹 本がアキムの奥さんの同質存在だったんだろう──アキムの奥さん。イルダナにとっては実のお姉さん。再びの喪失を恐れたのは彼も同じで、詳しくはわからな いけれどナルドがあちら側につくことをやめておとなしくなったのは、つまりそういうことらしい。

 歪んだ者──トラディネルから単なるトラジェリア人に戻った彼は、おかしな企みをしていない証のためにアキムと行動を共にしている。


 ──こういった説明は、アキム達が部屋に入る前にざっくりとおこなわれた。

 寒かったから一部からは文句を言われたけれど、安全性を考慮すれば仕方がない。アキムもそのつもりで話し始めたし、私も彼らと沙霧の間に立ってナルドを伺いながら話を聞いた。


『僕はイルダナと、撒かれてしまったディネラスの掃除をしてこなくちゃいけない。サギリを連れ帰るまでにはもう少し時間がかかるから、ここで待ってて。昼頃に迎えに来るよ』

「……わかった」

『オキノ』

 身を翻すのを途中で止めて、アキムは言った。

『ここは、彼らに任せても大丈夫だよ』

「……」


[なんだ? あいつらどこ行ったんだ?]

 微妙な顔でアキムのいたところを見てると、松井さんは怪訝な顔で訊ねてきた。


「後始末です。余計なの湧き出てこないように」

[って、誰もドアも窓も開けてねぇぞ⁈]

[ははは……治道、考えたら負けだ。ある意味いつもとは逆にな]

 目を剥くお友達に、伊藤さんは乾いた笑い。松井さんは二人に目をやってから、

[何だって?]

「え?」

[お前、あいつらの言葉がわかんだろ? 何つってたんだ、さっき?]

「……沙霧、もう心配ないって」

[マジか? やったな!]

松井さんは心底嬉しそうに破顔した。

 思わず、といった風にガシガシと頭を撫でられて寝不足の脳みそがシェイクされる。でもそれは、いやな感じじゃなかった。

 

 


 

 


back home next

使用素材配布元:LittleEden