むっとして、どこか甘い湯気の香りが、金臭さに染まっていく。

 私の体を中心に、無尽に広がる紅い靄が湯船の中に渦巻いて、真新しい湯の色を濁らせる。

 

 

 ぞくり、肌が粟立つ。

 

 湯の中に身を委ねた私は、さながら電子レンジの冷凍食品だった。

 寒さや疲れに、無理な姿勢で固まっていた身体が、じわじわと解れていく。

 湯の熱さに逆に鳥肌が立つのは、身の内に巣食った冷気が染み出ていくのと、温度差に負けた神経の過剰反応。同時に、蒸せ返るほどに強い血の香りが背中の毛を逆立たせてもいる。

 

 

 急激に温められた血管と、このどぎつい刺激とには、頭痛と目まいが誘発された。

 

 

 くらくらと、どこかへ揺らぎ出す意識。

 

 

 

 浅沼君と買い出しにいったのがいつのことで、誰に会ったのかとか、地震に目覚めた明け方、多田の機嫌を伺って、沙霧に悪態吐かれたら私は濡れねずみでいやそれは浅沼少年と出くわしたときか。

 リーハが現れてチームが分裂して高さんが頭さげてアキムと異次元にきて松井さんたちと知り合ったのが全部同じ日の出来事なんて信じられ な……いといえば沙霧のナルドへの反応とか高さんが沙霧のために頭下げるとかああでもあの二人親友って教えてくれたの三田君だし信じないわけいかないかな 嘘吐く子じゃないしアキムとナルドが兄弟って意外性よりはでもあれ血縁じゃないから意外でもないかけど今頃みんなどうしてるんだろなんで沙霧絡むとろくな ことないかなでもひどい目見てるのむしろあいつだしだからって死にかけるとかあんまり私まだ仕返しとか全然なのにどこか消えるなんていや消えてないし連れ 帰るんだからアキムと合流して大丈夫かなナルドと五分五分じゃないかなそしたら私がどうにかリーハはどうするって言ってあの時……アキムが言ってた。私達 が妖霊と呼ぶアレとアキムはずっと前から戦ってきたって。

 

 

 それじゃあ、妖霊に組してるナルドは……

 義理の弟とリーハもナルドも口を揃えたのに。

 アキムも否定はしなかったのに。

 アキムはアレをトラディネラスと呼んだ。

 けど。

 紛れ込んだ狭間からトラジェリアへ笹本を連れ込んだのは……

 アキムもナルドもこの世界で似たような変化を起こした。

 それじゃあ、アキムは……

 

 

───ぼちゃん

 音がして口に鉄の味が広がった。

 

 はっと意識が醒める。

 くらっときたまま、どうやら眠りこけていたらしいと気付き、ぎょっとする。

 

───沙霧はっ!

 

 

 ばしゃんっと一際盛大に散る飛沫。

 壁に紅い模様が増え……血染めの水玉がゆらゆらと踊る。

 

「く……っ」

 立ちくらみの余韻を払っている間に、私は湯が大して冷めていないことに気付き安堵した。

 

 

 追い焚き不能のユニットバス。

 それなら、惚けていた時間はさほど長くはない、はず。

 

 

 私は急いで地獄の池のような湯船を抜け出ると、身を、それから場を清めにかかった。

 この色彩は忌まわしい記憶を思い起こさせる。

 赤い血の池は殺戮の爪痕。そこには手足が転がって、助けられなかったひとの無念の形相が今も私を見据えているようで眠れなくて笑えない日々が続いたのは実はまだ遠い昔ではなくて。

 

 それを、その拒否反応を、この中にどっぷり浸かっておきながら今更、と言い聞かせて。

 

 

 沙霧は生きてる。

 確保して、手当して、ただ眠っているだけなんだから。

 

 

 

 

 

 

 ようやく濁りのなくなった水滴を、借物のタオルで拭いながら外に出る。

 浴室から沙霧の血の痕跡を抹消するのは一苦労で、三田君が託してくれたキーホルダーがなければそれだけで一日過ぎそうな位だった。

 手を貸してくれたのは、リュックの中に眠っていた、三田君の力が込められた、霊水入りのキーホルダー。駆け足みたいにこの世界のレクチャーを受けている間に、準備してくれたものの一つ。

 その力が、二つの世界に属するものを分離して、ここにあってはならないものを包み、封印に戻った。

 

 渡してくれたのは三田君だったけど、こんなに器用な働きをするのは、笹本の力も混ざってるからかもしれない。

 余計な力を妖霊に与えて、脱出のタイミングを逃さないように。

 私が最善を尽くして沙霧の捜索に当たれるようにと。

 握りしめた小さな硝子瓶からは、次元を越えては探しに来れない二人の、祈るような想いが伝わってくるようだった。

 

 

[おいおい、そんなんでちゃんとあったまったのかい?]

 苦笑いして伊藤さんが出迎えた当りから察しても、さほど時間は浪費しなかったらしい。

「ありがとうございます―――使ってください」

 うなづいてから、ペットボトルを差し出す。

 包帯を交換した彼等はまた血塗れに逆戻りだ。

 三田君の水はあの浴室で使い切ってしまったけど、だからってただ洗い流すだけじゃ、余計なモノを引き寄せるだけ。

 

 差し出したのは、祝詞の書かれたペットボトル。少しクセのある多田の字が、墨に乗って流れてる。

 

 

 これも出掛けに多田が寄越したものだった。

「容れ物は返して」

 素っ気無い口調で突き出して、睨むような強い視線。リスクの大きさを指摘した一人が、私の決断に怒るのも当然で。

 

 喧嘩別れみたいに私は出てきて、あの場は確かに分裂はしていたけど、それぞれの力を少しずつ寄せて送り出してくれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 初めて思い出した。

 

 

 

 

 決断をどう受け止められてても、私はみんなに支えられてる。

 

 

 

 だから私は決めたことを実現するんだ。

 しなきゃいけないんじゃなくて、ただするだけなんだ。

 

 

 

 

 

 それを実行できるのは、他ならない私だけなんだから。

 

 

 


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