「事件」が起こったのは、その三日後のことだった。事件。
もし、それをそう呼べるのならば。
浅葱区と宮内区の境にある、とある住宅地で、妖霊共が暴れているという情報を得て、私達はその現場へ急行した。
まだ真新しい住宅の壁には、焦げ茶色の染みが幾つも見て取れる。
……かなりの数がいそうだ。
三人で顔を見合わせて頷き合ってから、私達はそれぞれの武器を構えた。
ふっ
視界の隅に、早速妖霊の姿が入る。
「破っ!」
《湖泊》のくないが飛んだ。
わらわらと、連中の気配が動き始める。
「たぁっ!」
私は短刀を振り上げながら、その群の中に走り出した。
「ていっ」
うち、一体を踏み台にして、宙に浮いたヤツに斬りつける。
……べしゃ。
水ヨーヨーが割れたような感触があり、飛び下がった私の背後でヤツは消滅した。
この世界に存在できなくなって、強制的に連中のいるべきところへ転送されたのだ。下っ端中の下っ端に、態々「封じ」を使うこともない。
私は気のチューニングをそれより低い「返し」レベルへセットし直して、手当たり次第に次々と連中を斬っていった。
ヒュンッ
耳のすぐ脇を、気の固まりがかすめる。触れてもいないのに、こめかみのあたりがピッと切れたのが判る。
「危ないでしょ!」
私は振り返りざま、短刀を横に払いながら文句を言った。
「動きがとろいからだ」
その気を飛ばした張本人の男は、悪いと思った風もなく、言いきる。
その長い指は、休むことなく次の標的に向かって、不可視の弾丸を放っていた。
「自分を基準に考えないでよ」
下から上に向かって、連中を切り払う。そうしながら私は妖霊共の向こう側にいるパートナーをぎっと睨み付けた。
「半人前……」
ぼそっと呟くのが聞こえる。
言葉に詰まった……自覚しているだけに、今の言葉は耳が痛い。
私は何も言い返せずに、彼を睨み付けたままで妖霊共を葬っていった。
「《智依名》!」
《湖泊》が短く叫んで注意を促す。
私は塀の上に飛んで身をかわした。直後───
ズキッ
左のふくらはぎが、急に熱を持った。
「う゛っ!?」
バランスを崩し、私はアスファルトの上に転がり落ちる。
咄嗟に受け身を取ったおかげでダメージは少なかったが、それでも全身を強打して、目の前には星が飛んだ。
私の足から流れる赤い液体に惹かれて、妖霊はうじゃうじゃ近付いてくる。
……気持いい、ものではない。
「っく! 痛いぢゃない!!」
痛みと憤りを篭めて、私は力を一気に放出した。
こうまで寄られたんじゃ、一体一体相手にする暇はない。
ぶわっと風が起こって、連中は光に飲まれる。
ぜぇ、はぁ、ぜぇ、はぁ……息が、切れる……
全く、こんな下級のヤツを相手に、こんな力技を使うことになるとは思わなかった。
……足さえ、傷つかなければ……
「《智依名》、大丈夫!?」
《湖泊》が駆け寄ってくる。
今の自棄になった力のおかげで、仰ぎ見れば、連中の数は半減していた。
私は左足を庇うようにして、よろよろっと起きあがる。
「《湖……泊》、あの冷血男は……?」
ぐるりとあたりを見渡して、どこにも姿が見えないのに気付く。
いつの間に、どこへ?
「一部のヤツ追っかけて向こう行っちゃった」
答える声は、淡々としている。
ったく、あの男は何を考えているのか。
一人きりで深追いするのが危険なのは、世の常だ。それが判らない、素人でもあるまいに。
そう思いつつ、私の頭の大部分を占めていたのは全く違うことだった。
「足、やられたの?」
「……まあね」
ただの確認事項といった口調で《湖泊》は訊ねる。私は引きつった笑みで答えてから、十分に息を吸い込んで続ける。
「とっっっても素晴らしい腕前の、パートナー殿のおかげでね」
回避させようと思えば、できたはずなのだ。彼ほどの実力を持ってすれば。それを……
よりにもよって足に当てるだなんて! 物凄く頭に来た。
口に出したせいで余計に腹が立って、私は前方をきつく睨み据える。
「……後ろ、お願い」
短く《湖泊》に伝えると、短刀を、渾身の力でアスファルトに突き刺した。
「おん・あぼきゃ…………らばりたや・うん! なうまく・さんまんだ・ばざら・だん・かん……「封滅」!」
全身から全ての力が奪われて行く。
先程の比ではない気の放出に、薄れかけていく意識の中で、奴らが消え去っていくのが見えた……
「《智依名》っ」
ッパーァァンと派手に頬をひっぱたかれて、私はう゛っと目を開けた。
《湖泊》が私の顔を覗き込んでいる。
時計へと目をやれば、私が気絶していたのは、時間としては五秒とたたない間のことだったらしい。
そのわりには、頭の中はかなりはっきりしていた。
「無茶するなよぉ〜」
《湖泊》はじと目で私を見ながら、心配そうな声を上げる。私は大丈夫という言葉の代わり、ゆっくり立ち上がってみせることにする。
身体の節々が痛かった。
「連中は?」
訊ねると、
「消えたけど! んな体力で何考えてんの!」
咎めるような返答。言われても仕方のないことだ。我ながら、ムボーなことをしたと思っている。
「片付け、よう」
だけど、私は敢えてそれを無視して言った。
そして、それ以上言及されないうちに、足元の短刀を引き抜き、鞘に収める。
替わって取り出したのは、観世音菩薩のお札だった。
「サク」
私は観音の呪字を唱え、その札を用いて連中の痕跡を消して回る。媒介がしっかりしているものだから、力が殆ど必要ないのが有り難いところだ。
《湖泊》も諦めて同様の作業に入る。
十五分ほどかけてそれを終わらせると、今度はとりあえずの報告のために《鷹》のところへ連絡を付けた。
状況的にははぐれたことになる《狙撃手》も、既に片を付けて戻るところらしい。《湖泊》が私のケガなんて余計な報告もするから、《鷹》はやけに怖い声をして、早く戻ってくるように言ってきた。
電話を切ると、私は《湖泊》に手伝ってもらって足に応急処置を施す。それから二人で地下鉄の駅に向かって歩き出した。
戦闘の緊張感がなくなって、左足がずきずき痛み出す。
ったく、頭に来る、あの冷血人間!
恨めしく思い出すのは、素晴らしいパートナー殿の顔。原因については《鷹》にははっきり伝えないでおいた。
そんな告げ口みたいなことをしなくても、どうにかして謝らせてやるんだ!
私は、唇をぎりっと噛んで、その痛みをこらえ続けた。
使用素材配布元:LittleEden