───寒い。
最初に思ったのは、そのことだった。
薄墨の海のような空間は、業務用冷凍庫然として、本当に寒い。
何も考えずに飛び込んでしまったけれど、笹本は……?
戻る手段にも確証はもてなかったが、そのことに関しては不思議と不安はなかった。
何より、この空間はあまりにも嘘っぽくて。
……とは言っても、こんな空間の中、恐らく気を失っているだろう笹本が、無事でいられるとも思えない。特殊な力があるならともかく、笹本はあくまで一般人なのだ。抵抗する術を持たない笹本が、連中に見つかってしまったら……
「まずい……」
冷え切った身体を、私は自分の両腕で抱える。空間がどうこういうのとは別の問題で、早く笹本を見つけなければ、私まで寒さに参ってしまいそうだ。
「おん・ころころ……」
意識を額の一点に集中させて、呟く。薬師如来真言。
薄暗い世界の中に、黄色い光が生じる。本当に微かな光……笹本の生気を現すオーラだ。大分、弱っている。
急がなければ!
私は地面さえない空間を、光目指して走り出した。
全身に、ねっとりと乳白色の闇がまとわりつく。それを断ち切るように、私は短刀を振るう。
短刀に記された不動明王真言は、我が意を得たりとばかりに輝きを放ち、道を開く。この歪みの中でさえも、その力は衰えることはないようだった。
否……むしろ以前よりも強い。
理由は分からないが、この曖昧な次元の狭間に於いて、私の発する力は強度を増し、確実性を高めている。
近寄りかけた妖霊共が、触れる以前にかき消されていく程に。
「笹本!」
聞こえるわけがないと知りつつ、私は前方に向かって叫んだ。
もう、肉眼でも彼女の姿は確認できる。
ざわっ
しかし、私が笹本の身体に手をのばそうとしたとき、周囲の空気が急激にざわめきだした。
笹本の全身を薄く包んでいた層(幕?)は、警戒するように色をなす。
「っこの!」
私は空を蹴って、一息にそれらの中に飛び込もうとした。
が……
私がそこに到達する直前、突如として幾何学模様の壁が私達の間を遮った。
「───!!」
強かに額を打ちつけ、危うくはじき飛ばされそうになる。
額を押さえつつどうにか踏みとどまった私は、その壁の様子を注意深く観察した。
それは、微かに振動しながら少しずつ、縮んでいるようだ。
「って!」
慌てて側面へ回り込む。しかし、笹本の周囲はどこも同じものに阻まれて、そしてどのパーツも同様に縮小されて行くところだった。
このままでは、笹本は潰されてしまう!?
脳裏に一瞬スプラッタな笹本の姿が浮かんできて、私はぞっとした。この壁が妖霊本体ではない以上、同化されかかっているのではない。こんなものは……こんなことをやってのけるのは、上級妖霊、もしくは、それ以上の……!?
排除という言葉が頭をかすめる。
中級程までならともかく、それよりうえの妖霊共はあらかじめ同化する相手を選り好むという。それにかなわない相手は……!
「!!」
私はその可能性の高さに身震いがした。
そして、矢継ぎ早に、思いつく真言を全て口に乗せる。
「……おん!」
その度ごとに、私は刃を壁に叩き付けた。
幾つもの刀傷が、うっすらと幾何学模様を切り裂いていく。
まだ、だめだ。
「……はっ!」
何度も何度もそれを繰り返し、ようやく亀裂が壁の向こう側に届いたことを知る。
「……かん!」
亀裂は少しずつ広がって……そして、それを修復するためか、壁の縮む速度が今までに増して遅くなる。
がん!
がつっばしっ!
そうして、更に何十回殴っただろう。壁には、人一人行き来できるだけの、大きな穴が開いていた。
ぜい、ぜい……さ、流石に、い、息が……
私は壁の縁に手をかけて、その内側へと身を投じた。
中は、思ったよりも広い。
……というか、そこは、やはり幾何学的構図に満ちあふれた、まるで別な世界だった。
「! このっ」
笹本を取りまいていた者達の影が、驚くほどの間近にある。
私は、それに向かって最後の呪符を投げつけようと身構える。連中も、攻撃態勢だ。
「……おん・ばざら……」
その時─────
[何事だ? 騒々しい……]
左手から、若い男の声がした。
目の前の連中は動きを止める。私はさっと緊張した。
まさか……!!
ゆっくりと姿を現したのは、背の高い、人間の形をしたヒトだった。ヒト……そう呼べるのなら。
それは、青ざめたように白い肌と、プラチナブロンドの髪と、そして……ルビィかガーネットのように赤い、紅い目を、持っていた。
[……ん? 黒……髪……何故こんな処に……]
そいつはひとりごち、私に近付いてくる。途中、僅かの間笹本にも目を留めた。
背中を、冷たいものが走る……
動け、ない。
そいつは私の真っ正面に立ち、鑑定するように目を細めた。
どくん……心拍数が上がる。
その時初めて、明確な恐怖が私を襲った。
私は自分の頭が真っ白に、空っぽになるのを感じた。
何をなすべきかが、咄嗟に思い浮かばない……
と、唐突にそいつは表情を改めた。唇の端からフッと笑みがこぼれる。
[エスジェリアンか……]
呟きと共に、相手が緊張を解いたのが分かった。
しかし、何故……?
「案ずることはない。こちらには、害意はないよ」
そのヒトははっきりとした言葉で言った。日本語、だった。
そして私は、それまでのそいつの台詞が、理解できたのにも関わらず耳慣れない言語であったことに気付かされる。
「……何……者!?」
掠れた声でどうにか私は訊ねた。わざわざ途中から日本語に切り替えたというのが、物凄く怪しい。
第一、何故に日本語を知っている!?
「私はアキム・アマヤ・タク。この世界───トラジェリアの統治者の一人だ。君たちと戦っているトラディネラス……君たちの世界で言うところの妖霊共とは、昔から犬猿の仲でね」
そいつ───アキムは、微笑しながら左腕をまくり上げた。
「この傷(彼の見せた腕は、段差までついて見事に変色していた)これは、君たちの時間で言うと丁度五年前、奴らの上位種につけられたものなんだ」
言い終わると、すぐにまたゆったりとした袖を下ろし、傷跡を隠す。笑ってはいるが、その傷跡にアキムがかなりの屈辱を抱いていることはよくわかった。
しかし、だからといってまだ彼が敵ではない保証にはならない。
「害意がないってぇなら、笹本をどうしてこんなところに連れてきた!?」
よくもまあ、すらすら出てきたもんだというくらい、強い口調で私は問うた。精神力が、やっと笹本のところにまで行き着く。
何とかして取り戻さなければ!
私はぎりっと奥歯を噛んだ。
けど。
「ササモト、というのか、その少女……微かだけれど、我々の同胞の、気配がした……だから、意識を失っているところをこちら側に転送されたんだろう。済まないことをしたね」
アキムはあっさりと周りの連中に命じて、笹本を私の近くに運ばせた。
一体、何を───!?
疑っているのが、露骨に顔に出ていたらしい。アキムは少し困ったような苦笑を見せ、ぽつり、呟いた。
「疑り深いなぁ……アオキミヤみたいだ」と。
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