「!?」私は大きく見開いた目で、アキムを凝視する。
今、何て……?
「どう言えば信じてくれる? できれば笹本を診てやりたいんだけれど」
「あんた、さっき、何て……」
途方に暮れる彼の言葉より何より、私の頭の中に木霊しているのは……
「青木、美弥……!?」
高さんの顔が、頭に浮かんだ。
アキムは驚いたように私を見る。
「知っているのか? アオキミヤのことを」
やっぱり、アキムの口にしたのは、高さんの妹の名前だった。
「知っているも何も……青木美弥は、三年も前に、死んでいる」
私は簡潔に事実を述べた。
私は、生きている彼女に会ったことは一度もない。私がH2に入ったときには、彼女はもう墓の中だったから。
それでもその名前をよく覚えているのは、高さんが常に、私の中に彼女の面影を見ていることを、知っているからだった。
果たして、アキムはどんな反応をするのか?
いきなりそんなことを言ったのは、アキムと彼女の関係を探る意味があった。
H2の一員として力を尽くしてきた彼女だったから、妖霊共に名を知られていることだってあり得ないわけじゃない。
しかし、じっとアキムの気を探ってみても、驚きの中に偽りは見出せなかった。
「そうか……アオキミヤはやっぱり……最近見かけないから、おかしいとは思ったよ」
沈む声。瞳は幽かに揺らめいて。
「三年前と、言ったね?」
暗い表情のまま、アキムはふと呟いた。
[もしかしたら、あの大風の時期……]
思い当たることでもあるのか、彼は眉をひそめ、一人で何事かを口にする。
また、あの言語!
「あの、大風?」
私は業を煮やして聞き返した。
一人で納得されても、こちらには何のことかさっぱり分からない。
「空 間の隙間には、いつも風が吹いている。我々はそれを次元風と呼んでいるのだけれど、暫く前、こちらからエスジェリアに向けて、物凄い強さの風が吹き抜けた ことがあった。風が吹けば、馴染んだ空気を得たものは、強力な力を得る。いつもなら空間を越える力すらないものが、その世界の生命体に太刀打ちできるほど にね。増して、空間を越えても平然としてられるほどの、力の持ち主なら……」
適当に誤魔化されるかとも思ったのだが、アキムはきちんとその言葉について語ってくれた。
けれど、やっぱりよく判らない。次元の……風?
私が訝しげに彼を見遣ると、アキムはまた困った顔になる。
「どう、言えばいいのかな。え〜と、例えば、君たちが障気と呼ぶもの……そうだ、それが分かりやすいだろう。君たちは、恐らく、トラディネラスの周辺の、肌に合わない空気をそう呼んでいるんだろう?」
「え、ええ、まあ……」
当惑しつつ、とりあえず頷く。
「それはいわば、トラディネラスが本来生きる場所から持ち込んだ、異質な空気だ。奴らは当然、それがなければ生きていけないから、本能として身の回りにその空気を纏っている。それと同じで、通常の世界同士もそれぞれ違った……あああっ! いけない。ササモトのことをどうにかしなければ! あんまり長い間、外部の空気に触れさせておいたら……」
唐突に慌てて、アキムはあたふたと笹本の側に駆け寄った。つられて覗き込んだ私は、初めて、笹本の身体が土気色になっていることに気付く。
一体、いつの間に……
アキムの手が、笹本の額にのびた。
「何を!」
「待って。今、中和させる……君も、覚えておくといい」
アキムの存在力が高まった。
黄金の光が、彼の手から笹本の全身へと広がっていく。
危険を報せる感覚は、皆無。
私はただ、目を凝らしてその様を見守った。
「色が……」
驚きのあまり漏れる呟き。
光の通り過ぎたところから、光沢のない病んだ褐色は薄れていった。後には、笹本本来の、抜けるように白い肌……
私にはもう、茫然とすることしかできない。
「間に合ってよかった……やはり、気配が同じようでいても、ここの空気には合わないのか……否、気配が近いからこそ、か」
アキムの言葉に、私は彼を見上げてから笹本を凝視した。
力を込めれば真言を唱えなくてもオーラを見ることはできる。確かに、これだけの時間が経っているのに、狭間から逃れた笹本のオーラは、回復するどころかむしろ、ずっと弱いものになっている。
背筋がぞっとした。
アキムに指摘されなかったら、気付かずに、取り返しのつかないことになっていたかもしれないのだ。とにかく、一刻も早く何とかしなければ……
思ったのはアキムも同じらしい。
「詳しい説明はできなかったけれど、どうか信じて欲しい。今は、ササモトのことを優先したい。だから……」
彼は初めに笹本を閉じこめていたのと同じような箱を取り出した。
どこから出したのかは、よく判らない。とにかく、その箱を足下に置くと、それはぱたんぱたんと広がっていった。
「空間を繋ぐんだ。これを使えば、必要な分しか開かないから」
アキムは私に、笹本を抱えるように促した。
どうしよう……
ためらいが生まれる。
本当に、彼を信じてしまっていいのだろうか? あの中に入って、気が付いたら食料庫やモルモットとか、そんなことになったら……
私はじっと笹本を見る。
その顔は、こうしている間にも再び血の気をなくしていくよう。
ここまできてしまった以上、自力で帰り道を探すのは、不可能。アキムを信じないなら、彼が嘘を吐いたにしても本当のことを言ったにしても、じわじわと死に近付くだけ。仮に、彼を信じたとしたら……
私は、五秒ほどの間に考えてみた。
そして。
「わかった」
笹本を抱え、前に進み出る。
騙されていようがいまいが、ここでじっとしていてもどうせ助からないのだ。なら少しでも、笹本が助かる可能性に賭けてみたい。
それに。
じわじわと死に近付くなら、いっそのことひと思いに楽になった方がいいのかもしれないし。
私は開いた箱の、中央に立った。
「あ、君……」
彼は思いだしたように、私を呼び止める。顔を上げると、ほんのちょっと悲しそうな表情。
「多 分、ササモトにも、私達の眷属に近い力があるはずだ……たとえこれまでは眠っていた力でも、こうなった以上は目覚めるものと思う。それが、余計この世界か らササモトを遠ざけることになるのだけれど。もし、もしまた会うことがあったら、ササモトのことを話してはくれないか?」
「どうして?」
私が返したのは、純粋な疑問だった。
彼が、あまりにも真面目な顔をしていたので。彼が、彼とその使いの連中が、やたらと笹本に執着することが、気になって。
「それは……」
ぱたん。
箱が閉まり始める。
アキムは何故かためらって答えない。
「……」
ぱたん。
そうしている間にも箱はどんどん折り畳まれていく。
天井も閉じて、もう、顔の前を除き全てを幾何学模様の壁が取り囲んでいた。
ぱたん。
最後の蓋が閉められる直前、アキムの表情がふと和らいだ。
既に、視界は闇に包まれている。
「それは、今度会ったときに教えるよ」
声だけが耳に響いて……
一瞬、気が遠くなった。
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