すっかり暗くなった駅裏の通りを、私はゆっくりとした足取りで歩いていた。
すぐ隣にいるのは、見慣れない短髪の高校生で―――こんな時間にオンナ一人で歩いていたら、99%ナンパか強盗の標的にされるという皆の指摘に従って、私 は松井さんにあたりを案内してもらうことになったのだ。勿論、盗られるようなものなんてないし、襲われたところで、負けるつもりなんか全くないんだけ ど……それでも、申し出はとても有り難かった。
ちゃんと話をしてみると、時代錯誤の不良にしか見えなかった三人組も、それ程悪い連中じゃないってコトがわかって、彼らもまた、別口で沙霧の行方を当たってみてくれることになった。
月の光が眩しい夜だった。
あと少しで満月期を迎えそうな、真円に近い明るい月。
私達の世界よりずっと澄んだ輝きを放つ月影に、私はたまらず、月光菩薩へと祈っていた。
一刻も早く、あの男と再会できますように……と。
その時―――
車道を挟んだ向こう側の歩道を歩く人影に、ふと、目が止まった。
「―――!?」
我知らずびくりと身を震わせた私を、松井さんは怪訝そうな目で見、立ち止まる。
その人影は徐々に徐々に、近付いて……来る。
私はじっと相手を見つめ、気配を掴もうとした。
「!」
…………
―――違っ……た…………
大きく、息を吐く。
いつの間にか私は、息まで詰めて彼を凝視していたようだ。
それにもかかわらず、彼はこちらに気付くこともなく、眠りかけのようなぼんやりとした表情で、まっすぐ通り過ぎていった。
……それにしても。驚くべき程に、よく似ていた。
[どうした? 一体……]
私が緊張を解くのを待って、松井さんは怪訝そうに問いかけてきた。歩いていていきなりこの様子では、それも無理のないことだろう。
「今の、あのヒト……」
そう思って、遠ざかっていく後ろ姿を示すと、松井さんは、何故かイヤな顔をする。
[あ?]
「そっくりだった……沙霧に……」
[そう……かよ……あいつ、そっくり、か…………そりゃ、さぞかし目立つんだろうな……]
「え?」
松井さんの呟きに、今度はこちらが首を傾げる番。ただの通りすがりの相手に対するコメントじゃない。
[今のヤツは……戸川、馨っつって、俺の、後輩なんだよ]
「は……」
[ッたく、それなりに凄いヤツなのは認めるがよ、あんっな無愛想で生意気な一年坊主のクセにやたらと女共に騒がれてンだよな]
「わかる。沙霧もそーゆー奴だったから。周辺の女子校とかからモテまくりで、ファンクラブってーか親衛隊みたいなもんまであって……こっちは好きで近くにいるってワケでもないのに、視線が刺々しいったら……」
忌々しげに愚痴る松井さんの言葉には、ついつい共感してしまう。
だけど、ちょっと待って……?
頭の片隅が、彼の台詞に引っかかりを覚える―――異次元の、相補関係?
次元間の均衡は、無数の可能世界上に同質の存在が置かれることによって保たれている。ただしその同質存在が全く同一の時間軸上になければならないというも のではなく、いずれかの時間上にその存在がある(またはあった)という事を意味するものである。ごく近い性質を持つ次元であればあるほど同質存在の時間の 重なりは大きくなる確率が高くなるが、そのことは無数の多重世界がすなわち無数の可能世界であるということをもっともわかりやすく証明している事例であ る。
前項で述べた強制排除が作用するのはこの均衡が乱されることに起因する ものであるが、次元の存在は流動的な側面を持つため異物と定められた存在が消滅するには、個体により数日から数年間という大きな誤差が生じる。ことに、何 らかの異常が生じ、予め存在力に通常とは異なった兆候が現れている場合は異物と判定されることにも時間を要する傾向にある。しかしながら、同一時間軸上に 置かれた同質存在の場合、同一次元に存在した瞬間から次元統合の法則に従って互いに引き寄せられ、より強い存在力を持つ側へ吸収される形によって、その次 元上の複数の同質存在は一つの固体へと変化する。ドッペルゲンガーを見ると早死にするという話は、この時の存在力が拮抗した場合、互いの存在が相殺され共 に消滅してしまうという現象を示している。
もし仮に、戸川薫と沙霧要が同質存在だとしたら……
沙霧があの穴から落ちて、この街にやってきたこと。それが、同質存在に惹き付けられてのことだとしたら……!
この仮説が合ってるのかどうか、私にはわからない。
けどもしそれが本当だとしたら、あの二人を、出会わせてはいけない。
そのためにも、一刻も早くあの男を見つけ出さなければ……―――一つ間違えれば、沙霧要という存在は、永久に失われてしまう。
[おいおい、そこで沈み込むなよな]
急に黙り込んでしまった私に、松井さんはまた息を吐いた。
[戸川にそっくりな奴なんていったら、誰でもすぐ見つけられるぜ? 男なら気にくわねーって他校生でも覚えてんだろうし、女共は……言うまでもねーか]
「それは、わかる気もしますけど、でも……変な頼みだって、わかってるんですけど、今の「戸川さん」と沙霧を、絶対、絶対に出会わせないで欲しいんです!」
[―――何だそりゃあ?]
私の言葉に、予想通り松井さんは首を捻る。いきなりそんなこと言われたって、訳分かんないの、当たり前なんだけど、でも、私は必死だった。
「お互い相手が「そう」なんだって解らないと思うけど、だけどそれでも、会わせるわけには、行かないんです!!」
[って、生き別れの兄弟とか……まさか、な]
釈然としないながら漏れる、松井さんの呟き。それ、もらう。
「大体、そんなようなものです!」
本当のことを言うわけにいかない以上、それが一番、近くてわかりやすい解釈。
私はそれでも一応完全には頷いたりしないで、そんな風に曖昧な答えを返して曲がり角を右に曲がった……ところで。
厭な風を感じた。
イヤな、だけどよく知った、お馴染みの空気を。
[何だ……? この臭い]
隣の松井さんは片手で鼻を覆う。常人ならば、その反応が必然。
だけど私は、油断なく辺りを見回した。
どこか抜け道があるのなら、松井さんを逃がして、心おきなく始められるんだけど……
[―――!?]
ずさっ
しかし、それよりも先に向こうから姿を現してきてしまってはどうしようもない。条件反射で足を蹴り上げ、私は下級妖霊を一体、闇に返した。
[なっっ……!?]
突如周囲に群がり出した異形の物共に、焦った声を上げる松井さんがわかる。目をやると、すぐ側の壁に寄り掛かり、信じられないものを見たときの表情でもっ て、低級・下級の妖霊共を見つめていた。というか、見てるものが、信じらんないんだろう。まあ、取り乱して走り出さないだけいいか……
ポケットを探ると、簡易結界符がまだ入っていた。何も言わずそれを彼の上着のところに押しつけると、私は短い真言を唱えた。
結界符の表面、文字の部分が発光する。松井さんはそれに驚いて、符に手をのばす。
「剥がさないで! それがあればこいつらは近づけない!」
そう叫んだ私を見る松井さんの表情は、どうだったんだろうか?
その瞬間には、私の意識は目の前に集まってきた妖霊共を狩ることに集中していて、私がそれを知ることはなかった。
十、二十……三十体弱……
目測で数を数え、跳躍のために、腰を低く落とす。右手は、ブーツの横に構えて。
「ていっ!」
飛び上がりざまに短刀を引き抜き、私は連中の中心に着地した。
「おんあらはしゃのう!」
気を高めて真言を唱える。光が短刀を包み、薙ぎ払ったそれに触れた妖霊に、さっくりと傷が付く。
勢いのまま左足でそいつに蹴りを入れ、地に軽く左手をついて体勢を戻すと、今度はそのまま前方に短刀を突き立てる。横合いから迫ってきた爪は、身を沈めてかわす。ついでに、足払いをかけておいて別の一体に衝突させると、連鎖的に、五、六体が一塊りになった。
そこへ向けて、短刀を投げつける。
「おん!」
ブロックに刃の突き刺さる音だけがして、そこにいた連中はかき消された。私の武器が手元から離れたのを見、残った連中がうじゃうじゃ一斉に集まってきた。
だけど。
「臨……」
両手が空いていなければ使えない技もある。
私は久々にきちんと九字の印を結び、そこに集った力を前方へと解放した。
常人には不可視の光が、団体で妖霊に押し寄せ、それによって九割半の連中は闇へと返っていった。
残るは、二、三体ばかり。
「こんなトコまで来て、あんたらに煩わされてる場合じゃないの。だから……」
さっさと消えなさい! といわんばかりに、私は地面から引き抜いた短刀を横に一閃した。
「……かんまん!」
刃の軌跡に従って炎が生まれる。
つい最近身に着けた、不動明王呪の、完成系。その炎に包まれ、連中は影となり、消え失せた。
後には何も残らない。
軽く息を吐いた。
人気のないビルの影だったし、あの異臭もあったから、もとより侵入者が増えることもないだろうとふんで、結界すら張らずに済ませたから消耗は少ないんだけれど。
[…………]
顔を上げると、茫然とした瞳の松井さんがいた。
先刻の位置に硬直したまま、強張った顔つきで私を見ていた。
しょうが……ないよね。巻き込んでしまった、一般人だもん。
毎度のことながら、他人にそういう目を向けられるのはかなり厳しいと思う。やっぱり、ここの世界でもこれは異常な能力なんだろうね。見てればすぐわかる。
私は口を開いた。
「今 みたいな連中と戦うのが、私達の役割です。沙霧は、偶発的な事故でこの街に飛ばされてしまった、任務上のパートナーだったんです。あいつを狙ってる上位種 がいるから、急いで見つけ出さなければと思ったんですけれど……こんな形で貴方まで巻き込むとは考えていませんでした。私の思慮不足です、ごめんなさ い……」
結構、淡々と喋れたんだ、これは。
本当なら、記憶操作もしなければいけないところだったけれど、わかっていながら、そこまではしたくなかった。我々の日常空間とはかけ離れた、異世界にいる相手に対して。
もう二度と会うことはないだろうと、わかっていたから……
踵を返して立ち去るとき、私は微笑んでさえいたのかもしれない。
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