[チッ……あんだ? この人だかり]

 飛び出してきた猫に前輪をかすらせそうになって松井さんは舌打ちする。

 

 

 アパートの周辺は、様子がおかしかった。

 人も空気も落ち着きをなくして、酷くざわついている。耳を澄ませて探ってみると、汚水が逆流したとか鰐が出たとか、そんなことを、多分不安を紛らわせるためなんだろう、かなり声高な調子で喋り合っている。

 汚水……はともかく、鰐?―――どっかの都市伝説じゃあるまいし。

 

[りゃ、歩いた方はえぇな。おりるぞ]

 あちこちから現れる人のせいでブレーキをかけっぱなしの現状に肩を落とし、松井さんはそう宣言した。

 可能な限り急ぎたい私に否はない。

 

 先に後部シートからおりてメットを脱ぐと、嫌すぎるほどに馴染みのある独特の臭気が、微かに鼻を突いた。

 

「ッ!」

[あ! おいっ!]

「先行きます!」

 慌てる松井さんに叫んで、私は臭いの跡を辿る。

 こんな微かな臭い……もう「いなくなった」連中の痕跡だけ。

 ならそれをした沙霧はっ―――!?

 

 ざわつく人の間を縫って、アパートに近づく。

「―――ッ!!!」

 

 横倒しになった、見覚えありまくりのバイク。

 アパートの階段は建物の印象からは不自然なほどに腐食してて、おまけにおかしな形にひしゃげている。

 周囲の住人は「見た」「見ない」「聞いた」「聞かない」ばかりをしきりと繰り返して、かなり興奮している様子。

「ねぇ!」

 私はそんな住人の足元辺りで腰を抜かしているヤンキーの襟元を掴むと、勢い込んで話しかけた。

「ねえ! あいつは! あのバイクに乗ってた奴は!?

 がくがくしつこく揺さぶる。

 だってこの人、「見た」って目をしてる! きっと昨日に沙霧とやり合った一人だ!

 

 

[あ、あ、あ、あ、あああ……]

「何処!?」

[ど、どどどっかいっちまったよ! な、なんだよあれば、ばけッ]

おん

 最後まで叫ばせず、眉間を指で押さえて黙らせた。

 その先に、こっちにとって実りのある言葉なんて続きそうにもなかったから。

 

 

 起きたんだ……

 起きて、連中に襲われて戦って、それで。

 

 

 私は立ち上がると沙霧のバイクへと近づいた。

 傷は圧倒的に増えていたけれど、まだ、原形をとどめている―――壊れてはいない。

 私にはそれが沙霧の生存の証明のように感じられた。

 

[沖野!]

 人垣よりも頭一つ分高いところから呼びかけられて、私は起こしたCB400を残し松井さんの元に向かった。

 バイクのせいで前に進みづらい松井さんがこちらに来るより、小柄な私が人垣を抜ける方が遙かに簡単だからだ。

 それに。

 

 ここに残っていてもどうしようもない。

 

 

 

[……悪ィ]

 私が首を振ってみせるまでもなく、垣間見た惨状と噂話から事態を悟ったんだろう。松井さんは眉を寄せた暗い顔で、小さく私に詫びた。

「いえ……予測できたのにすぐに来なかったのは私の責任だし、バイクあるって事は、も少しまわり落ち着いたら戻って来るつもりはあるんだろうから」

 私はさっきとは違う意味を込めて首を横に振った。

 戻って来るつもりは、ゼロではないんだろうと思う。

 戻ってこられるかは判らなくても。

 物に執着することの少ない沙霧だが、珍しく大事に手入れしている愛車を、簡単に手放したりはしないだろう。

 今は決して簡単と言える状況にはないのだけれど、そうでも思わなければやりきれない。

 手がかりが全て途切れたなんて思いたくなくて。

 

[っか……]

 松井さんは納得したのかしてないのか、溜息のみで構成された相槌を打った。

 

 

「あ……」

 ぴぴっ

「松井さん時間!」

 さしあたってすることにはそれでも少し混乱してて、意味もなく腕の時計に目を走らせると、タイミング良く松井さんの時計のアラームが鳴った。

 

 開いたスケジュール帳に記されてた松井さんの今日の予定は―――

 

 追試と、午後からは部活。

 

 って……

 部活……!

 

 

[あ、ああ]

 私が松井さんのせいじゃないって言っても、それでもやっぱり責任を感じてるんだろう。応える口調は気遣わしげだ。

 でも松井さんはちゃんと現役の高校生で、追試とか部活とかそういう時間だって、持てなくなった後になってみれば大切なものだったってわかるから、大した関わりがあるわけじゃない私のせいで潰してもらいたくはない。

 それに……

 

「松井さん! 学校行くついでに、戸川さん? のよく行く場所、途中まででもいんで案内して下さいっ」

 私はぶんって擬音つけたくなるくらい勢いよく、松井さんに頭を下げた。

 

 部活といえば、沙霧の同質存在。

 

 目先の事態に振り回されてすぐに失念してしまいそうになる自分をぶん殴ってみたくなった。

 この辺りでじっとしてるより、闇雲に駆けずりまわるより、彼に縁の深い場所を探し回って時間を使う方がずっといいはずだ。

 

 本当は彼に近づかれないうちに片を付けるのがベター。けどこの際、そんな贅沢は言ってられない。

 

 沙霧は怪我をしてて、消耗してて、それでこの場からは離れていってしまったんだから!

 

[あ、ああ……別に、それはかまわねぇけど]

 戸惑った声の松井さんに、そういえば沙霧と戸川さんの関係をきちんと説明していない、と思ったけど、松井さんは疑問を口に出すかわりメットを被りなおして、そしてバイクのキーを回した。

 

 


back home next

使用素材配布元:LittleEden