[おきの、さん? あんた、沖野、深雪さんだろ?]

 私が進入経路について頭を悩ませているところに、左手後方から声がかかった。

 

 耳覚えはないけれど、私を呼んでいる。私の、名前を知っている。

 振り返った私は、すぐにその声の主を見つけだした。

 彼がまだ人垣の外にいたこともあるし、そうでなくとも。昨日、公園で見た手がかり、松井さんに見せられたプリクラでも、しっかり頭に叩き込んだ人の姿がそこにはあった。

 

 

[松井からあんたのこと聞いたよ。よくはしらねぇけど、あいつ―――沙霧、つうんだっけ? あいつが関わってんだろ、この騒ぎ]

 そう遠くではなく、大きな硝子の割れる、長い音が響く。

 それに合わせて、人垣のざわめきも激しさを増したようだ。

 チッ

 私と彼はほぼ同時に舌打ちして。

 

[後にした方が良さそうだな―――こっちに、抜け穴があるんだ]

 顔を蹙めた彼は、今私が最も欲しがっていた情報を与えてくれた。

 

 

 急がなきゃ、被害は拡大するばかりだ。

 

 

 

 

 先に立って駆け出した彼の背を追うと、程なく、コンクリートとフェンスの境にできた隙間へ辿り着いた。その向こうには体育館。

 

 脳裏に浮かぶ、顔。

 

 慣れた動作で身を擦り抜けさせる彼に続いて、その抜け穴をくぐり抜ける。

 何人も頻繁に利用する者があるためだろう。身体を横にしなければ通れないのは彼だけで、私が通る分には普通にしていられるほど、大きな隙間だった。

 

[確認しておくけど、あんたならどうにかできるんだろうな?]

 すぐに校舎へ向かおうとする私の腕を掴んで、彼は真剣な目で訊ねてきた。

 多分彼も見ていたんだろう。沙霧が妖霊とやり合うところを。

 でなければこんな顔をするはずがない。

 

「そんなの判りません。けど、私に―――!」

 彼の真摯さの分だけ正直な答えを返そうとして、途中で息を呑んだ。

 

 

 体育館の、入り口が、開け放たれている。

 

 

 もし、仮に、そしたら、可能性は、完全に―――

 

 

 

[伊藤!][沖野ッ!?]

 二つの声が重なった。

 

 校舎内のあまりの騒がしさに、練習は中断していたらしく、適当に固まった部員達の中に沙霧とよく似た男の姿を認めて、私は安堵の息をもらした。

 声をあげた一人である松井さんが、側にいたごつい大男に何か声をかけてから、こちらに近付いてくる。

 

[あいつは見つかったのか? さっき校舎の方で……]

「ここに来てるんです! だから連中も多分っ」

 私の返答に、松井さんの表情は一段と引き締まった。

[やっぱりか……行くんだな]

「行きます。でも……お願いします! あの人が沙霧に近付かないよう、見張っててください!! じゃないと……!」

 横で聞いている彼は、不審そうに眉を顰めて、それでも口を挟んでは来ない。

 松井さんにも、何がダメなのか説明してないのに、こんな事言ったって、通じないんじゃないかとも思った。

 だけど。

 

 

[―――わーった。わーったから、安心して行ってこい。そんな顔してんじゃねーよ、やっと見つかるんだろ?]

 松井さんはくしゃり、私の頭に手を載せて、唇の端を少しだけ持ち上げるようにして、笑ってくれた。

 励ましてくれてるんだって、判った。

「はい……有り難うございます、本当に」

 不覚にも声が詰まって、私はそれだけを言うと、単身、校舎に向けて走り出した。

 

 

 

 異質な空気は、徐々に強まっていく。

 

 出入り口に結界を築いていると、上空から猫が降ってくる。

『オキノ!』

 勿論、こんな状況にただの猫が降ってくるはずもなく、それは半日ぶりに会う、トラジェリア人の変化だった。

「アキム!?」

 

 

 けれど、アキムは今、あの中級妖霊を追いかけていたはず―――

『イルダナがここに逃げ込んだ。離れた方がいい』

「ッ!?」

 アキムの台詞が、私のイヤな予感を裏付けする。

 まさか。

 それじゃ、もう……

 

 

「じ、じゃあ、沙霧、は? あいつはどう……」

『……わからない。目的を果たしたら、引き上げてしまうはずだけど』

 アキムは言葉を濁した。

 

 ナルドは、ついでに私も捕まえる気で、待ちかまえているのかもしれない。

 それとも、まだ、沙霧の反撃を受けているところなのかも。

 ナルド・イ・アーダがこの世界に留まっている以上、奴の目的がまだ果たされてないって事だけは確かで。

 

 

 私は心を決めた。

「私……行くよ。こうなったらナルド見つけた方が早いでしょ」

 怖くないわけはなかった。

 けど、折角ここまで来たのに……引き返すなんて、できるはずない。

 

 宣言をした私は、アキムの反応を待たずに校舎へ飛び込んだ。そうしなければ、結局彼は私を置いていってしまっただろう。

 

 アキムは小さな溜息をつくと、私に並ぶように、走りながら言った。

『……わかった。けれど、サギリを見つけたら、できるだけ急いで離れて欲しい』

「わかってる」

 

 そう応えた時、また、階上で何かが吹き飛ばされる、衝撃音を聞いた。

 

 


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