廊下のあちらこちらに、戦闘の跡が残っている。それは、音のした方へ近付くに連れて、より激しさを増していった。

 障気もまた、恐ろしい速さで強まっていく。

 間違いなく、ナルドのいる気配。

 

 気が付くと、アキムはその障気から私を守るように私の前方を走っていた。

 

 

―――争う音が、途切れる。

 

『気をつけて、今―――』

 アキムが言うのと同時に、進行方向の扉が吹き飛ばされた。

 小さな犬―――緑がかった黒の小犬が、悠然とした足取りで近付いてくる。廊下の更に奥の扉は、既に奇妙にひしゃげて転がっていた。

 

 

『しつこい義兄上だ。義理とはいえ弟の私より、粗野なエスジェリアン共の方が余程大事だったらしいな』

 小犬―――ナルドは十分間合いのある位置で止まって、嘲笑を含んだ言葉を口にした。

 アキムはそれに応えない。すると、ナルドの冷たい視線はふと、私に向けられる。そしてまた、嗤いでもするかのように言ったのだ。

『それとも―――わざわざ私の前にサンプルを届けに来てくれたのかな』

「誰ッが! サンプルなんかに!」

 私は全身の緊張感を高め、挑むように青紫色の瞳を睨み付けた。

 油断ならない。

 今でこそ仔犬の姿をしているが、目の前にいるのは、あの時、私の動きをいとも簡単に封じ込めた、三年前に、大勢のハンター達の包囲をかいくぐって美弥さんの命を奪った、そんな相手なのだ。

 

 

 ナルドの現れた教室からは、動く物の気配を、何一つ感じない。

 

『……イルダナ。お前の追ってきたエスジェリアンは何処だ?』

 同じ事を思ったか、沈黙を保っていたアキムが、やけに静かな口調で訊ねる。

 

 小犬の口元が歪んだように見えた。

 

『さてね。この中にいるか、それとも外にいるか』

 アキムがいて、その上で能力は多少劣っていても攻撃力はある私がいる、この状況下にありながら、ナルドのそうした態度には、圧倒的優位に立つもののような、絶対的な自信が滲み出ていた。その口調には、私達をからかう響きがあった。

 

 まさか、沙霧は、もう……!

 

 

殺し、たのか……?』

『まさか。貴重なサンプルをそう易々殺したりするほどの無能じゃない』

 今度は、抑えられた静かな声の中に、アキムの殺気を感じ取ることは容易だった。それなのにナルドはこちらの神経を逆撫でるがごとく、あっさりと答えを返した。

 自分の優位を確信しながら、なおかつこちらの動揺を誘おうとしている。隙を、見せようとはしない。

 

 

 私達のどちらも、最初の一歩を踏み出すことができなかった。

 部屋の中が気になる。けれど、動きを見せて僅かにでも隙を作れば、ナルドはここぞとばかりに攻撃をしかけてくるだろう。

 

 

 

―――!!

 

 均衡を破ったのは、結局、私でもアキムでもナルドでもなく、背後から襲いかかってきた下級妖霊の一群だった。

 回避して飛び上がった私の足めがけて、すかさずナルドの攻撃が迫る。それを妨げる形で、アキムは何か力を行使した。

 私は短刀を振りかざし、簡略形の不動明王真言を唱える。

 斜め前方にいた妖霊共は炎に包まれ、蒸発する。

 そこに着地した私の左手からは、また妖霊―――私はしゃがみ込んだまま左足で薙ぎ払った。

 スライム状の青みどろな切れ端が周辺に飛び散り、私はそれをかわすため、目一杯壁際に身を寄せた。

 右手の方では、二匹の獣の姿のままで、アキムとナルドが火花を散らしている。

 

 

 じわり、じわりと、私は教室の入り口へにじり寄っていった。

「おん……ばざら……」

 追いかけてくる妖霊共に、もう一度明王の力をぶつける。

 

 横目で窺えば、ナルドはこちらに背を向けるところ。

 

 

―――今!

 

 

 私はそっと、その教室の中へ滑り込んだ。

 

 

 

 

 教室は思った通りの酷い有様だった。机や椅子はひしゃげ壊れて、無秩序に床に散乱している。窓硝子は大きく割れているが、破片は見あたらない。あちらこちらに、人間のものとわかる血の跡があり、それから……

 

 ブンッ

 私は右腕を振るって、近寄ってきた妖霊を叩きのめした。

 

 

 ……それから。教卓の残骸の向こうに、人間の、足。

 投げ出された黒いジーンズに包まれた両足。その周辺には、ひときわ大きな血溜まりができているようだった。

 元々のカラーは黒だとわかるのに、そのジーンズも血を吸って重くなっているのが、はっきり見て取れる。

 独特の、おぞましい光沢。

 

 

 私は慌てて駆け寄った。

 スクラップを飛び越えて。

 

 

 

 

 

 半ば予想したとおり、

 

 

 

 

 

 それは

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やっぱり、

 

 

 

 

 

 

 

 

 沙霧、だった。

 

 


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