やけに青白い頬、右胸骨あたりに滲んだ血や、無数の裂傷。閉ざされた、瞼と唇。
両腕の傷は、ずっと酷かった。
何より驚いたのは、ざっと検分してみたところ、既に手当済みだったような傷もある事実だ。そんな手負いの状態で戦って、勝てる相手ではないのに。
私は比較的傷の少なそうな左手の側にまわって、ゆっくりと沙霧の上体を起こした。
息はあった。
きちんとした手当さえできれば、助かるだろう。そのためには―――
残っている雑魚妖霊を片づけて、突破口を開かねば。
一反、黒板脇の壁に、沙霧の体をもたせかける。
部屋の中に侵入してきた妖霊の固まりに向けて、私は再び刃を閃かせた。
足場は最悪。だけど、廊下で一度量を減らしていたり、アキム達の戦いの余波を受けたためか、雑魚共との戦いはそれ程大変と言うほどのものではなかった。
着実に数を減らしていって、最後に目に付いた一体には、直接短刀を投げつける。丁度教室の中程に落ちたそれを拾いがてら、私は先刻とは逆の入り口からアキムとナルドの動向を窺おうとした。
人の動く気配がする。
振り向けば、沙霧が意識を取り戻すところで、私は一層慎重に、廊下側の壁の陰から争いの行方を覗き見た。
どちらもじっと動かず、また睨み合って牽制しあっている。辺り一面には、柔らかそうな動物の毛が飛び散っていて、双方共にかなり疲労しているのが見て取れる。
今はダメだ。
そう感じて引き返そうとした私の耳に、不吉な物音が聞こえた。
ガタン―――
それは、目を覚ました沙霧が、黒板の溝を支えにして立ち上がろうとする音だった。
「―――!?」
廊下の二対の視線が、沙霧に向けられる。沙霧の何となく虚ろだった瞳が、そのどちらかの上ではっきりとした像を結んだ。
―――殺意。
何処にそんな力が残っていたのかわからないくらいの、巨大な気の固まりが、凄まじい速度で沙霧の掌から放たれた。
対峙するアキムとナルドは、互いの動きを待つばかりで、それに関心を払っているようには見えない。
光が、ナルドの胴体を直撃した、と思った。衝撃波が、廊下の硝子を粉砕した。
一瞬の、静寂―――直後。
それを上回るエネルギーが、はじき返されるように教室へ飛び込んできた。
瞠目する沙霧。咄嗟に送ったアキムの防壁は、相殺することも敵わずに消滅する。
廊下では、再び激しい戦闘が始まっていた。
ナルドの放った力は、まっすぐに沙霧の胸部を捉え、勢いを殺さぬままその身体を吹き飛ばした。
閉ざされた窓、激突……沙霧の全身が窓をぶち破り、ガラスの破片と共に宙に浮くのが、スローモーションのようにはっきり目に映る。
深い底へと落ちていく、人間の両足。恐ろしい予感が、全身を竦めさせた。
私の、知っている光景―――
『オキノ』
アキムが促すように言ったのは一度だけだった。
私は唇をきつく噛み締めて、そして、三階の窓から身を躍らせた。
足下から突き上げてくる鈍い衝撃。脊髄にまで痺れが走る。目を瞑ったままで転ばずにいられたというのはちょっとした幸運だった。
着地した体勢のまま、ゆっくりと目を開けると、あたりには鋭いガラスの破片が散乱していた。
強い風が吹いて、それらの透明で細かな破片を巻き上げる。陽光を反射して煌めく、凶暴な粒子を吸い込まないように顔を背けると、向こう側に何かの塊を見つけた。
ぴくりとも動かない。
私は片腕で顔を庇いながら、ゆっくり、それに歩み寄った。
鼻につく鉄の臭いが、その塊の正体を感覚的に伝える。茶色く変色しかけた臙脂と、鮮やかで生々しい紅とが混じり合ったそれは、断じて、絵の具などではない。
言葉もなかった。
地面に直接頬をつけ、横たわる、土気色の顔。どぎつい色彩の中に浮かぶそれには、生気の欠片もなくて。
私は無意識のうちに跪いていた。
両膝を付いて、乱れた髪を退けるように、冷たく乾いた皮膚に、手を伸ばす。妙に現実味の乏しい手触りに、私はそのままの姿勢で、暫しの間呆けてしまう。
―――足音が近付いてくる。
それに気付いて、感覚が戻ってくる。
身構えた私の視界に飛び込んできたのは、知った姿だった。
「松……井、さん!?」
彼は私に気が付くと、ピッチをあげて駆け寄ってきた。いっぱいに開かれた目は、私よりも下方に向けられている。
[死ん……でるのか?]
第一声が、それだった。
松井さんの言葉に、心臓は勢い良く跳ね上がった。
―――嘘。
まる二拍遅れて、思い切り首を横に振る。そうしなければ、じわじわと心臓を締め付ける恐怖に、押し潰されてしまいそうだった。
だって、だって……!
松井さんは私の向かいに膝をついて、不自然な形に倒れたままの身体を、仰向けに寝かせなおした。
眉を寄せて、複数の傷口を見る。
誰が見たって、其の傷は……
[おい……だけどこの傷じゃ―――]
[死ぬはずない! そんな簡単にこの男が死ぬわけないのよ!!]
「この傷じゃ助からない」そう言いかけた松井さんの声を、私は無理矢理に遮って叫んだ。
拳を力一杯握りしめる。
怒りにも似た、訳の分からない衝動が、全身に満ちていくのを感じた。
使用素材配布元:LittleEden