伊藤さんの誘導で、私たちは学校から抜け出した。

 とにかく今は、少しでも離れなければならない。

 ナルドから、この喧騒から、そして、沙霧の同質存在───戸川薫という松井さんの後輩から。

 

 

 

 

 

 

 移動中のものに使用した場合の、簡易結界符の効力がどれほどのものなのか、それは実は一か八かのかけみたいなものだったけれど、幸い、私たちは誰にも呼び止められることはなかった。

 ほとぼりが冷めてきて静かになっていた、伊藤さんのアパートへと沙霧を運び込んで、その場にいた誰もがほっと息を吐く。

 

[つくづく怪我と縁あるのな、そいつ]

 生死の境を彷徨っていることはあえて余所に置いておくみたいな苦笑交じりで、そう言ったのは伊藤さん。

 松井さんといい伊藤さんといい、その原因や何やについて追求してくることはしない。

 

「おんかあかあ……」

 彼の呟きに応じることなく、私はぶつぶつと真言を唱え続ける。

 移動中は結界の維持に力を割いていたこともあって、沙霧の顔色は再び悪化の一途を辿っていた。

 居るだけで体力を激しく消耗する異空間。そこで、瀕死の重傷を癒さなきゃいけないなら、私がこうやって力を送り続ける他ない。

 

[少しは休まねぇと体もたねんじゃねぇ?]

[言って聞くならそうしてるって]

[だーかーら、どういうことかわかるように話せっ!]

[治道うるせぇ]

[少しは黙れ、桜庭……そうだお前]

 

 背後で言い合う声が聞こえてなかったわけじゃない。

 けど。

「……まかぼだらまに……」

 ひたすらに、私は真言を唱え続けた。

 こう、真紅に染まりきった布を当てていては、無理な移動のせいでまた始まってしまった出血がどれだけおさまって来ているのかも判然としない。

 私に出来ることといったら、こうして力を送り続けて、もう一度沙霧が意識を取り戻すのを待つくらいしかない。

 そしてそれは、アキムがナルドと戦っている今、私にしか出来ないことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気がつかないうちに背後の話し声は止んでいて、気付いたら、いつの間にか服を替えた松井さんが、薬屋の袋を私の前に突きつけていた。

[包帯巻くくらいなら、俺らでもできんだろ?]

「……らそわか……でも

 確かに。

 私が包帯巻きをするには、沙霧との体格差ありすぎるから、その申し出はありがたかった。

 けど私、ちゃんとした事情、話してない。説明できない。

 何でこんなに、沙霧の回復に一人でむきになってるのかとか、何で病院は駄目なのかとか。

 この世界の薬も……私にならともかく、沙霧に効くのかどうかわからない。むしろ逆効果ってこともあるわけで。

 そういうのを、私たちが異世界人だって説明抜きにしても話して、納得してもらうには、圧倒的に時間が足りない。

 

[いつまでもそんなカッコしてられねぇだろ? ほら、ダチの妹から借りてやったから]

 言葉を濁らせる私に、松井さんは反対の手に持っていた、もう一つの紙袋を押し付けてくる。

 

───血塗れの、今の自分の姿。

 実際に傷を負っている沙霧よりも容赦なく、全身にべっとりと血液が張り付いた私は、さぞかし凄惨ななりをしているんだろうって、思い至る。 

 けどそんなこと今は……

 

「……」

[っ!! 伊藤っ! こいつ捕まえて風呂放り込んでこいっ]

「あっ?」

 唐突に首根っこを引っ掴まれて、私は奇妙な声を上げた。

 

[本当やるのかよ? しゃーねぇな

 溜息の後、血糊とか姿勢のせいで強張った私の体を、伊藤さんが背後から引っ張りあげる。

 多少強引な手段をとれば、どうにかできる程度の束縛だったけれど、私は逆らうことが出来なかった。

 

 

 なぜなら。

 

 

俺らがやるのは包帯巻くぐらいだからな、あんまのんびりしないで戻って来いよ]

 私の不安を杞憂と笑うように唇の端をあげる松井さんに、反論の言葉なんて、思いつくわけがなかった。

 

 


 

 


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